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シャボン玉ノスタルジックアワー。
シャボン玉を見て、自分の小さい頃を思い出して、苦笑いみたいな
のはたいそうわかりやすい組合せで、これはシャボン玉がなんだか
平和そうで無垢であどけなくてちょいと夢が込められているメルヘ
ンなのもご存じかと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
特に意地悪な文章でもなく、しっかりしてるのでただ読むだけ。
しっかりしてるっていうのも逆に失礼か。読める文章をきちんと書
くのは当たり前かもしれない。一方ではごくありきたりの内容で、
だからこそ迷いなく読めるわけだが、物足りない、もうひと味、と
言うと思ってるだろうがそりゃまぁそうなんだけど、その前に今あ
るものを楽しめばいいじゃないか。
まずこの僕という30代の男だが、金がないね。寒いのにろくな上着
も持ってないね。あと仕事クビになった。午前中から意味もなく
ほっつき歩いて、「ちっ」と舌打ちしながらブツブツ文句言いなが
ら昼飯何食うかな、ラーメン昨日食ったなーそういや家賃振り込ま
ないと、とりあえずバイトすっかなーなどと考えている。
ちょい違って人と人とのしがらみに疲れて、路線からはずれて休憩
しつつも、不安を覚える今日この頃かもしれないが、少なくとも子
供のシャボン玉に目を奪われるくらい暇だった。ただね、「奪われ
る」というが実際はそんなに受動的なものでもないんじゃないのか。
初めて見るわけでもあるまいし、意思と無関係に奪われることはな
い。つまりこの男は奪われようとしているのであって、内部ロジッ
クを説明すると「あ、シャボン玉」→「久しぶりだな」→「ちょい
と目を奪われてみよう」ということになる。こんな裏の話はミッ
キーの中の人と同様に口にすべきことではないのだが、僕もすっか
り意地悪な大人になりました、いかがお過ごしでしょうか。
ともあれ目を奪われることに決めたシャボン玉を使って、男は日常
の欠落を埋めてみる。実際には埋まらないが埋めてみることでなん
か納得する。固執することでより納得を得ようとする。寂しさとか
孤独を感じるときに外部に発散する人と内部で処理する人がいて、
この男は後者だ。偶然出会ったシャボン玉を使い、彼は彼なりに自
分が失ってしまったものを補えるかをテストし、テストすることで
自分は補おうとしていることを確認する。まだ諦めてない自分を確
認する。内部でそういうロジックを組み立て処理していく。まぁそ
こまで明確じゃないにしろ理屈っぽいのは確かで行動の前に一旦考
えてみるタイプだ。書いてて、想像しすぎな気もしてきたから次。
> あの風景に一瞬でも
> 僕は居れたのだろうか
> 駆られた衝動を苦笑で抑え
> 浮いた造型を思い浮かべ
シャボン玉に奪われてしまった男が、シャボン玉なんかに!30年間
大事に取っておいたのに!とハンカチの端を噛みしめ・・・じゃなく
てだな。
シャボン玉の光景に自分自身を重ねて、衝動に駆られちゃう場面。
この「僕は居れたのだろうか」の問いの答えが、はたしてどんな衝
動に駆られちゃったのかしら彼ったら、の答えだ。
ケースその1)
ああ僕にはシャボン玉で遊ぶような子供の頃の思い出はなかった
なぁ(鉄仮面をかぶせられ地下牢に監禁されていたので)→今からで
もやってみようか→なんてね、やらないからやらないから
ケースその2)
そういえば最近シャボン玉ってやってないよなぁ→これでも結構昔
は得意で「シャボンの山ちゃん」なんて言われたもんだけどなぁ→
どれ、シャボンの山ちゃん復活といきますか→なんてね、やらない
からやらないから
ケースその1は過去の自分、その2は今の自分との重ね合わせ。ど
ちらもシャボン玉の持つ無垢や純粋さみたいなものを求めていて、
シャボン玉ることによって補おうとしている。ちなみに「今からで
もやってみようか」は、そこにいる子供に向かって「おじさんにも
やらせてくれないか」でもいい。「ウホッ!いい男・・・」「やらな
いか」でもいい。いやダメ。全然ダメ。
ケースその3)
たかし・・・→そういや父親らしいことを全然してやらなかったなぁ
→たかし・・・→あの子供、それにしても下手くそだな→どれ、ここ
はシャボンの山ちゃんが秘技を伝授して→なんてな、いまさらか。
いまさらだな
ここまでずっと自分の幼い頃と比べるようなことを書いてきたが、
自分の息子ってのもある。この男は家族もかえりみず仕事をし、そ
してクビになり、家も出てきた。このほうがしっくりくるな。「居
れたのだろうか」というのがどこに居れたのだろうかということで
あって、今目の前にある子供とその家族、父親は「どれ父さんが見
本を見せてやろう」と言い母親はベンチに腰掛け「あらあら」と
言っているその家族の光景に、男自身も居れたのだろうか。何かを
間違わなければ今もあの場所に居れたのだろうか。
確定づけるようなヒントはないのでどれでもいいんだが、彼を襲っ
た衝動はシャボン玉に手を出すことか、子供に声をかけることか、
元我が家に電話することか、ポケットに忍ばせた破滅のスイッチを
押すことなのか。(最後のだけは倍率100倍)
しっかしこの衝動すぐに打ち消してしまう彼は煮え切らないという
か相も変わらずというか、こういう状況におちいってるのも当然
かーって思えてきて、この男に興味なくなってきたよ。
さて、そろそろ物足りないと言っておくのだが、僕が物足りないの
はシャボン玉、郷愁、哀愁、苦笑いのセットが陳腐だからというこ
とではない。直接的にはそこではなく、ラストだ。
> ふと風に舞う泡沫が一つ
> 目の前をゆらりと横切った
この「ゆらり」ってわかったようでいて実はよくわからないだろう。
「ゆらり」は男の動揺でもいいんだが、動揺して終わりになって、
いやそれはそうだけど結局何の話だっけ?と感じる。情けない男の
心境をシャボン玉に見立てましたってことなら、なんて長い形容詞
だと思う。それだって詩なのだが、僕はそれを読んで「知ってる」
と思うだけだ。そういう状況なのは知ってる。僕の知ってることと
作者が知ってることがイコールでは物足りない。
作者の解がほしい。この話をこの先どうするのか、この男をどうす
るのかは作者が自由に出来るのだ。どうもしないという選択だって
自由だが、その選択はエンターテイメントとしては苦渋の選択では
ないか。ここだけは自分も書き手の立場で物を言うが、どうもしな
い選択をする作品が多いので(経験上そう思う)、僕は物足りないと
言い続ける。
突風が吹いてシャボン玉が一斉に破裂してもいいし、子供が黒づく
めの男に目の前でさらわれてしまうのでもいい。僕はこの男はもう
ダメな奴だと思ってるので、叱咤するような、懲らしめるような外
的要素がほしいと思う。だって自分じゃもう何もしなさそうだろ、
こいつ。そんな展開じゃなくてもいいが、このシャボン玉アワーと
いう風景を固定させて「ゆらり」という説明でまとめられると、あ
あ知っていたなこの作品は、と思うのだ。
風景を観賞するだけならば僕は僕でお外に出る。