自分の考えを言わない立派な役割だってある。
和泉 誠
自分が何を考えているのかはっきり言いなさい。
イエスなのかノーなのか自分の考えをはっきり言いなさい。
現代の日本人はこんな教育を受けています。
会話とは言葉のキャッチボールだ。
とても有名な言葉です。
キャッチボールとはつまり、
一つのボールを片方が投げて、もう片方が受け取る。
今度は片方が受け取ったボールを投げて、もう片方がそれを受け取る。
もう言おうとしてる事は分かると思いますが、両方が同時にボールを投げて、
両方がボールを相手に受け取ってもらおうとしてもうまくいきません。
中世のイギリス小説では女性は大変な馬鹿者として描かれている事が多いようです。
「ちょっと聞いてよ。今日はそれは大変な事があったのよ。
まず第一にね。今朝は雨が降りそうだったの。
それで私は傘を持とうか持たないかずいぶん悩んだわ」
「へぇー、そう。ところでね。
私、今日町の通りで素敵な帽子を見つけたの。
あなたのと同じ形なんだけれど、なんとリボンの色が赤なの」
「あら、そう。そして私はね。
結局傘は持っていかない事にしたの。
だって雨が降ってきたら雨宿りすればいいんだもの」
まあ、だいたいこんな感じです。
どちらかが話をしたら、もう片方はしっかりと一度それをしっかりと受け止めて
それから言葉を返してあげなければ、それは一方的なコミュニケーション、
あるいは、コミュニケーションにさえならない場合があります。
さて、ここからが本題です。
昔の日本ではこの一方的なコミュニケーションが平然と行われていました。
女房は旦那のことを立てなければいけない。
昔の日本人の女性は自らの旦那の言う事に絶対服従で、
自分の考えを言うことは女房らしからぬ振る舞いだと言われていました。
旦那さんはそれはいい身分です。
何でもわがまま言いたい放題。したい放題。
奥さんに何か言われたら、女は黙っていろ!で解決です。
それは不公平で明らかに女性を差別した一方的なコミュニケーションです。
しかし、そのおかげで家庭というものはたしかに守られていたように、私は思います。
たくさんの船頭がいては船は真っ直ぐには進めない。
これも有名な格言です。
私はこの考えがとても嫌いなのですが、たくさんの人が一緒に何かをする時に
人は平等であっては何をするにも上手くいかない、と思います。
やはり何かをする時、そこには役割が必要であって、
先導する者と、それに追従する者ができる事が必須である気がします。
この世界の人はみな平等であって、みな等しい権利を持つ。
それは人間が頭だけで考えた理想であって、
実際にその手を動かしてみるとそれでは上手くいかない事に気がつくでしょう。
もちろん、人は理想に向かって進むが故に人でありうるのだという考えは分かります。
しかし、増加する離婚によって次々と不幸な子供が生まれているのは紛れもない現実。
不幸な子供はより多くの不幸を招く事でしょう。
だからと言って、今更女房は旦那を立てなければいけないと言うのは、
これはいささか時代遅れな発想である気がします。
しかし、家庭をゆるぎないものにして、不幸な子供が生まれるのを未然に防ぐためには、
やはり夫か妻かのどちらかは相手を立ててあげなければいけない。
私だったら、結婚届に新しく「リーダー」という項目を設けて、
両者話し合いの末にどちらかを先導役、
もう片方を追従役に決めてもらうようにしますかね?
契約書はお金が絡まないと紙切れ同然と思っている人が多い気がします。
ですが、契約書にサインをする時は自分の人生をかけて誓うものだと私は思います。
その誓いを破ったらもう自分の人生に顔向けができない。
今まで自分を支えてくれた人、出会った人、みんなを裏切ってしまう事になる。
結婚式という日常とは全く違う荘厳にして高尚なる儀式も
人生に一度は経験しておきたい憧れの晴れ舞台くらいにしか受け取っていない人が
やはり多い気がします。
あんまり真面目に生き過ぎると疲れるのかも知れません。
しかし、大人とはいつも真面目であるべきだと私は思うのです。
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