詩的インプラント 〜 馬野幹氏に捧げる鼻歌 あるいは馬野幹宇宙人説 〜
大覚アキラ

ぼくが小学生のときのことだ。たぶん3年生だったと思う。学校に、オペラ歌手の人が来た。児童全員が体育館に集められ、パイプ椅子に並んで座らされた。ステージの上には、タキシード姿の恰幅のいいおじさんと、派手な赤いドレスを着たおねえさんが立っていて、ニコニコと子どもたちを見下ろしていた。二人とも、小学校の体育館というシチュエーションには全然マッチしていなくって、なにやらタイムスリップしてきた異国の人のようだった。おじさんは穏やかな笑みを浮かべ、おねえさんはやさしい顔で子どもたちに微笑みかけていた。
簡単な挨拶のあと、おもむろにステージは開演した。ピアノの伴奏に合わせて、おじさんとおねえさんは歌い始めた。途端に、さっきまで穏やかな笑みを浮かべていたおじさんは眉間にものすごい皺を寄せて唸り声を上げ、やさしく微笑んでいたおねえさんは「もうこれ以上は1ミクロンも開きません!」というぐらいに両目を見開きサイレンのような叫びを上げた。びっくりした。ものすごくびっくりした。そして、恐怖と恥ずかしさを感じた。

恐怖っていうのはアレだ、さっきまでの二人が一瞬でまったく別人のように変貌してしまったことに対する違和感に由来するものだろうか。楳図かずおのマンガで、キレイな継母が蛙や鼠を見たとたんヘビ女の正体を現す場面があるんだけど、アレだな。そういう感じ。ああ、ちょっと違うな。変貌して怖い姿になるから怖いのではなく、変貌してしまうこと自体が怖いのだ。
それと、恥ずかしさっていうのはですね、これがまた説明するのが難しい。見たこともないモノに変貌してしまった相手に対して自分はどう接するべきなのかわからない、そんな感覚だろうか。それがなぜ“恥ずかしさ”というものに繋がるのか、上手く説明できないのが悔しい。

鑑賞する対象として、もっと冷静に受け止めることができるものだったり、あるいは逆にもっと自分自身も熱狂し没入できるものであれば、きっとそんな恐怖や恥ずかしさは感じないのだと思う。それは、対象(この場合はオペラ歌手の二人)に問題があるのではなく、受け手であるぼくの予備知識やマインドセットの問題なんだと思う。準備ができていなければ、何事もスムースに受け入れることはできないのよね。

ポエトリーリーディング、あるいは詩の朗読、まぁ、どっちでもいいや、とにかくそういう類のもの(ややこしいので、以下この文中では◎とする)に対してぼくが抱いている感覚っていうのは、まさに前述したオペラ歌手の人に対する恐怖と恥ずかしさに通ずるものがある。◎に対してどういうスタンスで接したらいいのか、よくわからないというのが正直な感想だ。要するに、小学3年生のぼくがオペラ歌唱に対して無知であったのと同様に、いまのぼくは◎に対して余りにも無知で準備不足なのだろう。実際、これまでに◎をライヴで観た回数など、たかが知れている。人数で言えば、そうだなぁ7,8人だろうか。そんな両手にも満たない数の◎しか観ていないオマエが何を語るねんオイ、という意見もあると思うけど、ほっといてくれ。

そんな◎童貞なぼくが、生まれて初めて観たステージ上での◎は、馬野幹氏の◎だった。
それが、ぼくと◎との奇跡的にして幸福な邂逅だったのか、はたまた不幸にして通り魔に出くわしたようなものだったのか、それはわからん。不思議なことに馬野氏の◎は、◎童貞のぼくを、何の違和感もなく受け容れてくれた。やさしく撫でるように、そして激しく突き上げるように。そこには、あの“恐怖”も“恥ずかしさ”もなかった。ステージ上での馬野氏の振る舞い、息遣い、そしてあの独特の声質とイントネーション、それら全てが今でもすごく生々しく脳裏に焼きついている。どうやら、あのときに、馬野氏はぼくに呪いをかけたようだ。なぜならばあれ以来、馬野氏の詩は読んだだけで、すべてぼくの頭の中で馬野氏の◎として変換・再生されるのだから。あの声で、あのリズムとイントネーションで。

これはやっぱり不幸なことなんでしょうか、センセイ?
ぼくの◎童貞は馬野氏の乱暴なやり方でムリヤリ奪われたうえ、何かを植えつけられてしまったのでしょうか。




(インプラント=歯医者のアレじゃないよ。UFOにアブダクションされた人が、体内に何かを埋め込まれるっていうアレね。)


散文(批評随筆小説等) 詩的インプラント 〜 馬野幹氏に捧げる鼻歌 あるいは馬野幹宇宙人説 〜 Copyright 大覚アキラ 2005-12-28 12:07:03
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