「渡る世間は鬼ばかり」はどうして文学史に載らないのか。
和泉 誠
文学史に載る作品というのは
一体誰が決めるものなのか私は知りません。
けれどもそれがきっと老人達であるのは
間違いない気がします。
文学史に載る作品に
一体どんな基準があるのか私は知りません。
けれども例えばその基準の一つとして
その時代の抱える悩みや不満を
浮き彫りにしている事が挙げられると思います。
「渡る世間は鬼ばかり」は
その基準を満たしている気がします。
けれども誰もそれを文学史に載せようとはしません。
あるいは、その文学性さえ認めません。
正直な所、私は「渡る世間は鬼ばかり」を
えなりかずきが出てる事くらいしか知りません。
これは例え話なんです。
どうしてTVドラマは文学史に載れないんでしょう?
人は最初
その文化を結晶化するために
歌を唄いました。
次の世代の若者達は
立ちはだかる大人達を超えたいが故に
そして自分達の文化を結晶化するために
歌ではなく絵を描きました。
老人達はきっとそれを笑った事でしょう。
けれどもそんな老人達は寿命を全うして先にいなくなります。
その次の世代は同じ理由で彫刻を彫りました。
老人になった昔の若者達は
やはりそれを笑ったのでしょう。
次の世代は詩を作りました。
次の世代は戯曲を作りました。
次の世代は小説を作りました。
次の世代は映画を作りました。
次の世代はTVドラマを作りました。
文化を結晶化するための媒体は
栄えては消え
栄えては消え
そしてその度に
新しい媒体が生まれてきます。
まるでそれ自体が生き物でもあるかのように。
だから、逆らったって無駄です。
「渡る世間は鬼ばかり」を載せる事ができない今の文学史は
もうどこかの博物館の標本になる運命しかないんです。
歴史に残るものは、
例えば年末になると必ずTVで流れるベートーヴェンの第九。
TVという20世紀の媒体からもちゃんとオファーがありました。
その理由は一体なんでしょう?
それが真の芸術だからですか?
たいそうな理由ですね。
芸術なんて「人の創作物」というカテゴリーでくくってしまえば
形は違えど大きさは違えど
大して変わらないと私は思います。
こんな事を言うと偉い人はすごく怒りますが。
家族で美術館にて。
歩きつかれた子供が椅子にへたり込む。
「変な椅子だね」
「ははっ、本当だな。どれ記念に一枚」
とお父さん。
「あの、そちら当館の展示品ですので・・・」
「えっ・・・こら、マサト!立ちなさい!本当にすみません」
永遠ではない私の人生にとって
その芸術とは一体何であるか?
どれだけの価値を持って、何か私のために利用できるのか?
私は常にそれを考えます。
もちろんわざわざ美術館でそれを口に出して
周りの人を怒らせるような事はしません。
ただ、何か大きな力に騙されながら
あるいはその嘘を必死で抱きしめながら
自分の限られた人生を送れるほど
私は善良でもお人よしでもない。
それだけです。
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