http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42417
特にコメントすることがなかった。それがこの「叫びと沈黙」の弱
点ではないか。叫びと沈黙という相反するものを並べてそれぞれが
同一であると言う。叫びは沈黙によって生まれ、沈黙は叫びによっ
て生まれる。お互いの果たす役割は同一であり、故に叫びと沈黙は
同一なのだという話だった。類似として昼と夜、生と死が挙げられ、
これらは叫びと沈黙が同一だよということの説明に用いられている。
言っていることはこれで以上ではないか。
最初から最後まで叫びと沈黙の同一性の話をしていて退屈になって
しまった。僕たちはこういう相反するものが実は同一である、とい
う話をすでにたくさん知っているし、それの真偽はよくわからない
が、というよりその日の気分で真でもあり偽でもあり、この手の話
で「なるほど、違うものだと思っていたものが実は同じだったん
だ!」と感動することはあまりない。情報は流通しすぎてしまった。
愛するが故に憎み、憎むが故に愛するような話が典型という座席を
すっかり勝ち取ってしまった。
そしてもう少しひねくれた大人になると、愛と憎しみが同じなんだ、
という話を聞いてもそれは詭弁だろと思う。違うもんは違うだろと。
なんか流行が一回りしてしまった感じであり、再びレトロブーム到
来みたいなところだ。お話として聞かされる分にはそれくらい冷静
に処理される。
作者の気持ちとしてはふとそういう叫びと沈黙の同一性を身に感じ
て記した作品なのかもしれない。ただそのふと身に感じたものが文
章を介して読者に伝わることはなかなか困難なことだ。少なくとも
「なぜならば」という説明では知ることはできても、同じように身
に感じることはできない。「叫びと沈黙」という作品は説明の域を
出ていないと思う。どうすればもっと感じさせることが出来るかと
いうといくつか方法があるのかもしれないが、読者を話中に引き込
むのが手早い。作者がふと身に感じた状況と仮想的にでも同じ立場
に読者を置くことだ。そのためには、それなりのお膳立てと作品と
しての魅力が要る。ひきこむためのものが。
詩でそれをやってほしい。散文詩を書けということではなく、むし
ろ散文以外でやってほしい。