夜警
MOJO
日が沈みかけたので金庫の現金を数え、出納帳に記した。数十円の誤差は、自分の財布から補填し帳尻を合わせた。電気、空調のスイッチをオフにし、扉に施錠しエレベーターのボタンを押す。エレベーターはがらんがらんと音をさせながら私のいるフロアまで昇ってきた。一階に降りるまで、まだ仕事をしている同僚が乗ってくることはなかった。
晩飯は会社から最寄の駅までの道沿いにある蕎麦屋で済ませることにした。この時間になれば、かつては毎晩のように上司や同僚と酒を酌み交わしたものだ。学生のころは、居酒屋の隣のテーブルで熱く語る背広姿の者たちを嫌悪したものだが、自分が背広を着てみると、会社帰りの居酒屋でするのは、やはり仕事の話だった。
蕎麦を啜り、勘定を済ませ店を出ると、日はすっかり沈み、街は暗かった。歓楽街のネオンが歩道に反射し、私の影と交錯する。いつものことだが、駅のホームで電車を待つあいだ、ここに立っている者のなかで、唯一自分だけが孤立している、との思いに囚われる。
混雑した車両に乗りこみ、つり革に掴まる。車窓に流れる民家の灯りはいつも私の孤立感を募らせた。つい先日、カソリックを信仰する作家のエッセイを読み、不覚にも涙を滲ましてしまったことを思い出す。
明日は神経科の医者に通う日だ。処方された抗うつ剤が効くことに愕然としたのは、もう遠いむかしのことであるように思えた。あちこちの神経科で様々な薬を処方されたが、いま服用しているものは、一分が何事もなく過ぎ、六十分が過ぎ、二十四時間が過ぎる。そんなふうにもう二年ちかくが過ぎていった。血圧の高い者が薬を常用するようなものさ。そうたかを括っているが、一方ではそれでは済まない、済むはずがない、と囁く声も聴こえる。
日付が変ってから、眠剤を服用し、ベッドに入る。目を閉じて暫らくすると、いつもの如く異形の者達がベッドの周りによってくる。彼らは毎夜現れて、私についてあれこれ語り合う。
「こいつ、案外しつっこいな、この期におよんで、自分は何か創造できる、と想っているみたいだ」
「まったく図々しいやつさ。未だに自分の居場所が見つからない、なんて寝ぼけたことをいう」
私はしばらく彼等の会話を聴いている。彼等の表情は段々凶悪なものに変化してきた。ある者は赤く濁った眼がつり上がり、口が耳まで裂け、黄色い歯の奥が黒ずんだ赤だ。またあるものは頭部が異様に大きく、眼の黒い部分が胡麻粒ほどしかない。
衆目に晒されて断罪。
そんなキイ・ワードのような一節が私の心中に流れてきたが、なおもすると手足が弛緩してくるのが実感できた。つまりはもうすぐ眠ることができるらしい。しかし眠れる、と意識した途端に異形の者達の囁き声が壊れかかった冷蔵庫のモーター音の如く私の神経を刺激する。
夜警である。
私は眠れぬ自身をそう規定した。野営するキャラバンの一員として歩哨に立ち、交代の者が来るまで眠ることは許されない。
暗い天井の染みが地図のようだ。圧政に耐えかねて、約束の地カナンへ旅だった人々の、荒涼とした行路に想いをはせながら、眼はいっそう冴えてくるのだった。
来なくても一向に差し支えないが、朝はやってきた。魍魎どもはいつの間にか去り、私は僅かだが眠ることができたようだ。
私は目覚める直前まで女と一緒にいた。夢の話である。女は日当たりの良い部屋のベッドに身体をSの字に曲げ横たわっていた。その耳もとに女の名前を囁くと、女はSの字のまま手を伸ばし、人差し指の先で私の胸の辺りに触れてきた。もう一度名前を囁く。指先が伸びてきて私に触れる。私の心中は甘味なもので満ちていた。
そんな断片を書き写そうと、枕の脇に置いておいたメモ帳を広げたが、何も書かず閉じてしまった。すぐに出かけないと神経科の予約した時間に間に合わなくなるのだ。私は洗面もそこそこにデイパックを担ぎ部屋を出て、駅までの道を急ぎ足で歩いた。
寝覚めてすぐに服用した抗うつ剤が効き始めてきたのだろう。休日のプラットホームはとてものどかに感じられた。部活に向かう少女たちの嬌声や赤子をあやす若い母親の声をぼんやり聞くうちに、クリーム色の車両が速度を下げながらホームにすべりこんできた。
車両内は空席が目立つ。デイパックには数冊の文庫本と一冊のハードカバーを入れてきた。文庫は偏愛する作家の短編集やエッセイで、ハードカバーはこれから診せに行く医師の著作だった。半年ほどまえに、時たま訪れる古本屋の、心の健康、なる一角で見覚えのある著者名を見つけ、手にとり著者紹介の頁を確かめると、私が二週間に一度通院する医師の顔写真があった。しかし私は未だにこの本を読む気にはなれない。
待合室の扉を開けると、くの字型のソファーには初老の男が座っていてた。スポーツ新聞を読んでいる。私は男から離れたところに座った。バロック調のピアノ曲に耳を傾けていると、化粧室の扉が開き、若い女が出てきた。表情を窺うと、明らかに苛々しているのが見てとれる。
女はソファーに座ったが、ものの数十秒で立ち上がり、再び化粧室の扉の前に立った。濡れティッシュで丁重にドアノブを拭いてからなかに入り、しばらくすると不機嫌な貌で出てくる。ソファーに座る。再び立ち上がり、ドアノブを拭く。なかに入り出てくる。診察室から呼びだされるまで、女は延々とその行為を繰り返した。
女が診察室に入ると、私は初老の男に目を移してみた。しかし禍々しいことが起きてしまったあとに、残された者同士が共有する、あの奇妙な連帯感はそこになかった。男の視線の先は四つに折りたたんだスポーツ新聞だったが、記事の内容などもう上の空であるに違いない。見てはいけないものを見てしまったことへの恐怖感。それが起きたすぐ近くに自分が居たことへの嫌悪感。かつて初めて私がこの待合室を訪れたときに覚えたと同質のものを男は感じているに違いなかった。
名を呼ばれ、診察室へ入った。
「いかがですか?」
「はい、あい変らずです」
「眠剤を減らす検討はしていただけましたか?」
「色々考えましたが、やはり従来通りの量を処方していただきたいです」
検討の余地などないが、とりあえずそう言ってみた。
「分りました」
医師はそれ以上は何も言わず、処方箋を書いてくれた。
神経科の入っている雑居ビルの、大通りを挟んで反対側にある薬局で、処方箋と薬類を交換し、そのまま自宅に戻った。途中、自宅近くのコンビニで弁当を買った。遅い昼食だが、それがきょう初めての食事だった。
今夜もあと数分で日付がかわる。眠剤は既に服用し、そろそろ手足の関節に脱力感を覚えはじめてきた。私はいま、ここ最近入り浸っている、インターネットの某巨大掲示板に書き込みをしている。しかし徐々にキーボードを叩く指先がおぼつかなくなってきた。
ベッドに横たわる時間がきたようだ。異形の者達は今夜も来るのだろうか。奇妙なことに、私は挑むような心持ちになってきている。
部屋の灯りを消し、身体をベッドに横たえた。暗い天井を見上げ、昨夜は地図のように見えた辺りに目を凝らす。手足が痺れ、周りの空気が重く粘ってきた。アフリカ大陸のような形の染みが、今夜は女の横顔のように思えてくる。暫らく見つめていると、横顔は陽炎がたったように輪郭がぼやけてきた。
そういうことか。
私は先の展開が予想できた気がして苦笑した。そのうち横顔が何か言いだすに違いない。陳腐な演出で登場するからには、それなりのことをしてもらいたい。横顔に孔が開き、それが目となり私をじっと見つめている。私も目を逸らさない。今夜の私は好戦的である。
しかし横顔は何も語ろうとはしない。そろそろ焦れてきたころ、物音にはっと我に返った。枕もとに置いた雑誌が床に落ちたらしい。天井の横顔はただの染みにもどっている。拍子抜けしたその瞬間、開かれた状態で床に落ちた雑誌が、ばたばたと音を立て宙に浮いた。暫らくベッドの周りを飛ぶうち、雑誌は白い鳥に化け、カーテンの向こう側に入りこんだ。
「意気地がないな」
「ああ、想像力も幼稚」
異形の者達がいつの間にかベッドの周りで囁き合っている。
「でも、最近は素直になってきているな、ついこの間までは、かたく目を瞑り、耳を塞いでいたものな」
「そろそろ見せてやるか」
「今夜は何にする?」
彼等はとても穏やかだ。その会話に耳を傾けるうちに、私は澄んだ水のような心持ちになってくる。
ランドセルを背負った二人連れの男の子が、商店街を抜けたところの掲示板のまえまできて足を止めた。学校帰りだろうか、二人が見上げる先には、きのうまではなかったポスターが貼られていている。カーキ色の制服を着た屈強そうな男が敬礼していて「自衛隊、隊員募集」と大きな書体で書かれている。
「かっこいいね、あれ」
「うん、かっこいい。ジェット機とか操縦するのかな」
「ジェット機、操縦したいの?」
「うん、したいな」
二人は掲示板から離れ、歩きだした。
「きのうの国語の作文、あれいやだったよな」
「べつに。巨人に入りたいって書いたよ」
「なんか、なんにも書くことがなくて、こまっちゃったよ」
「将来の夢って題で、まえにも書かされなかったっけ」
そのとき二人の後ろからベルが鳴る音がし、黒い学生服姿の少年が漕ぐ自転車が二人を追い越していった。
作文が嫌だ、といったのはかつての私であるらしかった。はるか彼方の「将来」にたどり着くまでには、来年からは、とりあえずあの自転車の少年のように黒い学生服を着るのだ。そう思うと眩暈がしてくるようだった。
「まてよ、小学生の抱く感慨にしては、妙に可愛げ気がないぞ」
疑念が生じたと同時に目が覚めた。
異形たちはもう姿を消していた。喉が渇いているが、身体が鉛のように重く、起き上がり台所まで行く気にはなれない。時計を見ると、そろそろ雀が鳴きだす時間だ。私はしばらく暗い天井を見上げていたが、染みが何かに化けることはなかった。
「シュリム、シュリム…シュリム」
手足が弛緩して重い。心臓が脈打つごとに、こめかみで、首筋で、血液の循環を知覚できる。
シュリム、それが私に与えられた聖句だった。
カーテンを閉め、灯りを消した部屋で、椅子に座り、私はひたすらその一語を心中で唱えている。眼は閉じている、というよりも、瞼の裏側を見つめている、といったほうが正しいかもしれない。さっきまで右の瞼に貼り付いていた猿の異形は、私が決して眼を逸らさないことに嫌気がさしたのか、姿を消してしまった。次第に吸う息がみじかく、吐く息がながくなってくる。冬眠中の熊が見る夢のなかにでも入りこんだような、そんな悠々とした気分で、私は想念の海を浮遊している。
眠剤を服用するようになる、ずっと以前の話である。
ある日、クルマを運転しながら、何気なく聴いていたラジオ番組に、テレビドラマでよく見かける役者がゲストとして出演していた。
自分は役者であるが、じつは瞑想者でもあり、最近瞑想についての本を出版し、きょうはそのキャンペーンのためにやってきた。瞑想の実践は極めて簡単で、機械が作動するが如く自動的に無我の境地に導かれる。そのときの脳波を計測すると、修行を積んだ禅僧が、座禅を組むさいに発する脳波と同じ性質のものである。この瞑想を実践するうち、日々を穏やかに過ごせるようになった。
私はその役者の話に甚く興味をもった。その頃、雑踏にまぎれて交差点の信号で立ち止まると、信号が変わってもいつまでも動き始めることができずに立ち尽くしてしまうことがおこり始めていた。当時は神経科で診察を受けることなど、まったく念頭はなかった。この何処からやってくるのか分らない厄介な現象を、追い払う手がかりがその瞑想者の話しにあるように思ったのだ。
その日、所用を済ませた私は、帰宅する途中で書店に立ち寄り、瞑想者の著作を買った。翌日には電話で面会の予約を取った。
数日後、私は花束を抱え、都会の片隅にある古びた集合住宅の一室の扉のまえに立ち、呼び鈴を鳴らした。応対にでた者が某と名のり、電話で話した人物と知れた。グレーのスーツを着た、植物質な印象の男だった。部屋のなかに入ると、シタールの音色が静かに流れていた。床も壁もリフォームされてから日が浅いのか、建材や接着剤のにおいが強く残っていた。ソファーに座り、所在なさげにしている私に
「迷わなかったですか?」
コーヒーカップをテーブルに置きながら、男が柔和な表情で話しかけてきた。
「はい、勤め先がここから近所ですから、この辺りはよく知っています」
私は自分の声が必要以上に大きいことに気づいた。緊張している。しかしその男は表情を崩さなかった。
「そうでしたか、花束をお預かりしてもよろしいですか?」
「どうぞ、これで良かったですか?」
「はい、と言うより、花なら何でもいいのですよ」
「やはり、あれですか。俳優のAさんの影響は大きいのですか?」
「どうでしょうか、この教室では、あの本を読まれておいでになった方は、あなたが初めてです」
「時間はどれ位かかりますか?」
「小一時間ですが、後にご予定がおありですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが」
私は言葉を繋げずにいる。
「では、そろそろ始めましょうか」
男は立ち上がり、私から受け取った淡い紫色の花束を祭壇の上に置いた。祭壇は、ヨガの行者のような、この瞑想方法を世に広めた人物の顔写真が、小机のうえに掲げられただけの簡素なものだった。
男は祭壇に向かい、片膝を床に付け、眼を閉じた。左手は胸に置き、右手は虚空から何かを捕らえるが如く、顔写真のまえで微妙に位置を変えながら、掴んだり開いたりを繰り返している。私は男の左斜め後ろで、座布団に座り、男のする一部始終を眺めている。男が聴きなれない外国語で何やら呟きはじめた。一瞬、ここへ来たことを悔やむ気持が生じたが、効果がなければ、体験そのものを捨ててしまうだけのことで、そう考えれば、大した間違えではないように思えてきた。
「あなたのマントラが決定しました、シュリム、です。さあ、眼を閉じて心のなかで唱えてください」
私は、男のリードに従い、たったいま決定した私の聖句を唱えた。
シュリム、発音し難いが、音声はないのだからべつに構わない。シュリム、シュリム、シュリム、シュリム…シュリム……身体の芯が暖かくなってきた……シュリム、シュリム、シュリム……。
「はい、静かに眼を開けてください」
男の声で我に返り眼を開けた。全てがどこか青みがかって見えるような気がする。
「いかがでしたか?」
「はい、なんだか、身体の芯が暖かいです」
「いま、リラックスした気持になっていますか?」
「どうでしょうか。ところで、シュリムとはどういう意味ですか?」
「どうしても、とおっしゃるのならお教えしますが、マントラは意味を知らない方が集中できます。あなたはいま、二十分ほどのあいだ、眼を閉じ、静止した状態を保っていたわけです。長く感じましたか?」
「いえ、ちっとも。むしろ短かったです」
「短く感じたのなら、あなたは既に瞑想者です。マントラに対して疑念を持たずに唱えたから、二十分があっという間に過ぎたのです」
「言われてみると、目を閉じて二十分じっとしていろ、と命じられたら、苦痛でしょうね」
「マントラの意味を知れば、そこへ意識が向きますから、初めのうちは、意味を知らない方が良いのです」
「分りました、気が向いたら自分で調べてみます」
部屋からでて、大通りを歩きながら、たったいま起きたことを反芻していると、地下鉄の入口から花束を抱えた女がでてきた。私は冷水を浴びたような気がしたが、その女には決して視線を向けずにすれ違った。
こうして私は瞑想者になった。しかし半年経ち、一年が過ぎても、心に平穏はやってこなかった。そればかりか、瞑想中にふと視線を感じ、気配のある方へ神経を向けると、シュール・リアリズムの画家たちが描くような、目鼻立ちのバランスがはげしく崩れた者がじっとこちら見ているようなことも起こりはじめていた。
私とベッドの周りに寄ってくる異形たちとは、こうして出会ったのである。
〈未完〉
・左記カフカの掌編に触発されて書き出しましたが、どうにも纏まりません。
夜に沈んでいる。ときおり首うなだれて思いに沈むように、まさにそのように夜に沈んでいる。家で、安全な屋根の下で、寝台の上で手足をのばし、あるいは丸まって、シーツにくるまれ、毛布をのせて眠っているとしても、それはたわいのない見せかけだ。無邪気な自己欺瞞というものだ。実際は、はるか昔と同じように、またその後とも同じように、荒涼とした野にいる。粗末なテントにいる。見わたすかぎりの人また人、軍団であり、同族である。冷ややかな空の下、冷たい大地の上に、かつていた所に投げ出され、腕に額をのせ、顔を地面に向けて、すやすやと眠っている。だがおまえは目覚めている。おまえは見張りの一人、薪の山から燃えさかる火をかかげて打ち振りながら次の見張りを探している。何故おまえは目覚めているのだ? 誰かが目覚めていなくてはならないからだ。誰かがここにいなくてはならない。
「夜に」F・カフカ 池内 紀訳