昔の駄文「他者の発見」
佐々宝砂

戦争の話をしたもんだから、私が16歳のとき書いた詩を思い出した。意識的に詩を書きはじめて2作目の詩である。


 「所有者」

あたしはいつだってあたし自身のものだと彼女は思っていた。彼女の思想が通用せぬ時代があったことを学んではいたが、彼女は、それはあくまで彼女とは関係せぬ昔語りであると信じて疑わなかった。そして彼女は、閃光を浴び最期の瞬間を迎えたときでさえも、気付くことがなかった。彼女の生きる時代もまた、過ぎ去ったあの暗い時代と大差ないのだということを。

彼女の膨れ爛れた醜い肉体は、今や誰の所有物でもない。


これを書いた時、世界は冷戦まっただなかだった。1984年のことである。私は切実に核戦争がこわかった。世界は終末の一歩手前だと思っていた。私は死ぬ、みんな死ぬ、世界は終わる。切実にそう考えて、私はひとつの結論を得た。

「私は私のものではない」

私に思想らしきものが生まれたのはこのときである。この散文詩がいい散文詩だとは思わないけれど、この散文詩は私にとって大切なもの、迷ったとき立ち戻るひとつのポイントとなった。これが私の基本なのだ。私は私のものじゃない。私という人間は、私にとってさえも他者なのだ。当然のことながら、この結論に到る前に、私は「他者」というものを発見している。

いつからそうだったか思い出せないけれど、私にとって「他者」という概念は自明のものだった。私以外はみんな他者だ、そして「他者=私でないもの」があるからこそ、私は「私が私であること」を確認できる。そして私自身もまた、他者から見れば他者である。アッタリマエなんだけどねえ、こんなこと。

しかし、せばさんが言うには、これは普通そんなに自明のことではないらしい。普通のヒトは、恋愛を体験してはじめて「他者」を発見するらしい。そんなもんかと思って、ちょっとびっくりした。私にとっての「当たり前」が他者にとっての「当たり前」じゃないのは「当たり前」なのだが、忘れてた(笑)。自分だけを基準にモノを考えてはいけません、またも、自戒自戒なのだった(笑)。

私が他者を発見したのは、たぶん、私が周縁にいる人間だったからである。首都に住んでるわけでない。田舎に住んでるがその土地で生まれたわけではなく、なんとなく、除外されている。女である。子供である。地理的に周縁に住み、その周縁にある小さな共同体のさらに周縁に住み、男性中心の社会にとっては周縁にある女性の世界に住み、さらに周縁にあえて言えば下位に位置する子供の世界にいる。しかも私は趣味が風変わりだった。そして身体が弱かった。だから私はみんなと遊べなかった。子供の世界の中でもさらに周縁にいた。それが私だった。

子供という点を除けば今もそんなに変わりはない。むしろ、広い世界を知ってしまったので、周縁にいるという意識はさらに強くなっている。私は黄色人種(白人中心の視点からすれば周縁)で、日本人(西洋中心の世界からすれば周縁)で、クリスチャン(現在の日本人の多数が無宗教か自覚のない仏教徒であることを考えると周縁)だから。

周縁にいる私は「中心」を想像した。自分がそこに属しているとは思われない世界の「中心」を想像した。想像しないでも周縁で生きてゆくことはできる。狭い世界で自分の位置を確保していれば、そこが自分にとっての「中心」であって、自分以外の「中心」のことなど考えなくても生きてゆける。しかし私は狭い世界の中ですら、自分の位置を確保できなかった。心臓が悪くて外で遊べなかった私の世界は、子供の世界ではなく、本の、活字の、物語の世界にあった。そしてその世界の「中心」にあるものは私ではなかった。どう考えてもそうではなかった。だから私は、恋愛を体験する前に「他者」を発見せずにいられなかった。

子供のときの話なので、なかなか思い出せない。順序だって理路整然と考えたことでないとは思う。しかしとにかくこの「他者の発見」が、私という人間の、また私の詩作の土台になっていることは確かだ。最近になるまで忘れていたくらい下にある土台だ。私はそこに立ってものを言わねばならない。

     * * *

恋愛についてちょっとだけ。恋愛以前に「他者」を発見していた私に恋愛がもたらしたものが何だったかって、それは、私を好きになる他者もいるとゆー驚愕である。それは今もなお驚きだ。あんまりビックリしちゃって泣きながら土下座したくなるほどだ(笑)。他者が私を排除するとは限らない。私を受けいれてくれる他者、私と似た他者、私に受け容れることのできる他者がいる。私はまだそのことに慣れていない。慣れた方がいいのかどうか、決めかねている。

私はときどき、頭が真っ白になるような歓喜とともに、私は孤独ではないのだと感じる。それは恋愛とは無関係なのだけれども、恋愛で「他者」を発見した人には「恋愛のようなものだ」と説明しておいた方がわかりよいだろうと感じる。

2002.


散文(批評随筆小説等) 昔の駄文「他者の発見」 Copyright 佐々宝砂 2005-10-29 16:38:53
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