太陽みたいな
日雇いくん◆hiyatQ6h0c

 都営三田線巣鴨駅から十数分歩いて滝野川に近い庚申塚の駅に行き、そこから巣鴨新田寄りに都電の線路沿いをいくと彼女の部屋があった。本当はもっと早く行ける道があるのだが、都電──それも、リニューアルされていない、昭和の頃につくられたような車両──の走っている姿を見るのが好きで、いつもこのルートを辿るのだ。古い都電がちんちんと、鈴のようなものを軽く鳴らしながら走る姿をみるたび、いつも、何かが救われていくような気がする。
 彼女の部屋は80年代あたりに流行ったようなコーポタイプのアパートで、2階の一番奥の方にある。周りは築数十年経つような蔦や葛が壁一面にびっしりと這いまわっている感のある高湿度きわまりない木造アパートばかりで、おかげで彼女の家は年がら年中日の光が当たらない。さすがにみかねて、もう少し日当たりのいいところに引越ししたらどうかと訊いてみたことがあったがまったく耳を貸さなかった。そもそも彼女は日当たりのいいところが大がつくほど嫌いで、蛍光灯の光ですら紫外線があたるなどと言ってよほどの事がないかぎり点けたりはしなかった。彼女はいつも、地蔵通り商店街にいくつかある雑貨店で売っていそうな仏壇用の蝋燭を点け夜をすごしていた。だから外出する時も日光が当たる時間帯を極力避け、夕暮れどきも終わりそうな時刻から山高帽のようなものを被ってうつむきながら街を歩いた。一緒に歩く時もそうだったし、たまたま一人で歩いているのを見掛けた時もそんな調子だった。一人で歩いている時の彼女の周りは、そこだけがまるで薄暗い模様みたいなものに包まれているようだった。一緒に歩いている時はどうなのだろうとふと思った事もあった。それはきっと2人という事もあるから、低く見積もっても2倍以上の力でもって、まるでブラックホールのような雰囲気を出しているのだろうなと思われた。要するに彼女とは、似たもの同士という事なのだろう。
 彼女の部屋のブザーを押すと10秒くらいで少し待っててと遠い声がし、しばらくしないうちにかぎが解かれ何事もなく部屋に入った。ラジオの音が微かに流れるだけの、8畳ほどのワンルームは相変わらず整理されていた。もともと彼女は部屋に家具や大きなものをあまり置かないので、おかげで中がすっきりしていてきれいに見えるのだが、部屋の中央にあるガラス天板の小さなテーブルも程よく磨かれていて、定期的にこまやかな掃除をしているのがわかる。100円ショップで買ったと思われる茶色の薄い座布団を出してもらいテーブルのそばに座ると彼女が紅茶を出してくれた。紅茶といってもこれも100円ショップのものだったが、雨ばかりで寒々とした日ばかりが続いて冷え性が一段とひどくなっていた身には本当にありがたかった。彼女の分の紅茶も一緒に置かれると、対面に座ってきた。

──今日は、また泊まっていくの……
──うん。
──いいけど、今日私、何にもできないよ……
──別に、いいよ……

 彼女がうつむき加減に紅茶をすすりながらぽつりと言う。普通に受け入れた。別に、彼女に何かさせようと思ってきたわけじゃなかった。そうなるかどうかはいつも成り行き次第だったし、そうした事を考えて飢えるように求めたことは、思い出す限りはただの一回もなかったはずだった。まったく自然に、ふと気がつくとそうなっていたのだった。彼女もそれはわかっていたはずだと思っていた。そういえばこんなことを言われたのも初めてだったような気がする。気がつくと、ああ、そうなのかなと、とっさに思いつく。そろそろ潮時なのかもしれなかった。思い過ごしかもしれなかったが、部屋に入れてくれるくらいだから用事があるような気配でもなさそうだった。
 二人で紅茶を飲み合いながら何も言わずにいくらかの時間が経ったころ、彼女がおもむろにラジオを消しテレビをつけた。画面はニュース番組を即座に映し出した。さして興味のない、暗いばかりのニュースが延々と続いていく。キャスターの、抑揚のない音声を、気持ちうつむき加減で環境音楽代わりにしながら、何年か前に前に付き合っていた別の彼女が、テレビのニュースは暗くなるばっかりだから見ないんだ、みたいな事を言っていたのを思い出す。その彼女はショートカットがよく似合う運動部系の勝気そうな容姿だったが、付き合う前、心療内科で鬱病の治療を受けていたと人づてに聞いた事があったので、きっとそういう症状を引き起こすようなものから離れていたいんだろうな、と妙に納得したものだった。結局その彼女とは、やはり鬱病が原因で次第に離れていったのだが、二人で夜を明かしている時にふっと見せる表情が子供っぽくてかわいらしかったので、そういう事になったのは、ちょっと残念な事ではあった。
 やがてニュースが終わり、画面はどこかの地方を、レポーターがはしゃぎがちに明るく紹介するみたいな番組に変わっていた。興味がちっとも沸きそうになかったので、彼女の方をちらっとみると姿勢すら画面の方を向いていなかった。ただテーブルの上に置かれている、すっかりとさめた紅茶の入ったカップをうつろに見つめているだけだった。思いついて、彼女の前にひゅっと手をかざしてみるが、さして驚く様子もなく、引き続きうつろになっている。

──どうしたの?
──……うん、……

 問い掛けるが、生返事を繰り返すだけで、顔を向けてもくれない。しかたなく、テーブルの上にあるテレビ用のリモコンで、ふうと、ため息をつきながらチャンネルを変える。次々とチャンネルを変えるが、時間帯のせいか、あまり楽しそうな番組がない。その中でいちばんまともそうな2時間ドラマの再放送にチャンネルを合わせた。かなり前に放送されたものらしく、子供の頃によく見かけた役者たちばかりで、画面の質感もそれらしくくすんでいた。大げさな芝居と展開がそれに輪をかけていた。普段なら間違いなく見ることのないものだったが、あえてそのままにした。画面の方を向きながらあれこれと思う。いつ別れを切り出されるのか、ただ単に本当に気分がすぐれないだけなのか。彼女の様子を観察して推測しようにもじっとして動かないままだった。そして突然、出会った日のことを思い出す。
 何年前になるだろうか、まだきちんとした就職をしていなくて、派遣でオフィス関連のソフトを触っていた。午前10時から午後6時までの入力が主な業務。時給1250円の週5回、残業はなるべくしないでまっすぐ家に帰り、就職のための資格習得の勉強をしていた。その派遣先で、彼女と出会ったのだ。細かいスキルが必要な仕事がたまたまあって、彼女がそれに対応できずやり方を訊ねられたのがきっかけだった。それはソフト専用の、1000円くらいするような市販書になら必ず出ている、だけど本当にちょっとした、細かい忘れがちな事だったので、たまたま覚えていて普通に教えただけなのにすっかり感心され、その日の、勤務が終わった後いきなり飲みに誘われた。資格の勉強をしなければならなかったので断ったが、彼女の妙に必死で強引な押しに押され、じゃあ日をあらためて飲もうという話になり、その週の金曜日に行く事になった。よほど待ち遠しいらしく、週末まで彼女の、本当にうれしさいっぱいといった感じの視線に付きまとわれることになって、ちょっと仕事がやりづらかった。休憩時間以外は話らしい話はしなかったが、ふと見ると彼女はいつも一人だった。どことなく、同じにおいを感じた。
 金曜日の夜になり、派遣先の近辺はきちんと飲めるような繁華街がなかった──あるにはあったが、いきなりファミレスで、というわけにもいかない──ので提案し池袋まで出ることになった。池袋は自宅から数駅だったし、彼女も、遅くなっても歩いて帰ることができる場所に住んでいるので好都合だった。駅に着き、東口は混んでいるだろうと思ったので西口の、丸井前の放射路から池袋2丁目あたりの方へ向かいある程度進むと薄暗い細い道へ入っていった。そして学生の頃から通っていた、行き付けの店に行った。普通の小さなスナックで、側に、いわゆるハッテンバと言われているサウナ旅館があった関係か、マスターもそういう人だった。と、いっても別にそれらしい店構えがされているわけでもなく、ただきれいに清掃が行き届いているだけの、本当に普通のスナックだった。ただ、それを知らない人が入ると雰囲気でわかるらしく、あわてて退散する人が跡を絶たなかった。彼女と飲んでいるときもそんなサラリーマン風の人が何人かいた。
 彼女は店に入ってからちょっとの間は、わりに大きな目を見開いたりして驚いていたが、やがてすべてを理解した。何を話したかは覚えていない。記憶の中ではそのあたりがすっぽりと飛んでいて、気がつくといきなりベッドで、二人とも裸になっていた。近辺には北口からつながるホテル街があったが、チェックインは無理だったはずなのでスナックからほど近い、シティホテルのようなところに入ったはずだった。記憶の中での部屋は、簡素な、しかし必要最小限のものが置かれていて、ベッドや家具も下品な調度のものはなかった。ようするに変わったところのない、普通の部屋だった。たしかそこで、お互いにシャワーを浴び、ベッドにもぐりこんだはずだった。
 彼女と顔を見つめ合ってすぐ、キスを、された。アルコールとシャワーのせいか息が荒く吸い込まれるような勢いの、キスだった。つられて吸い返し、段々と、ゆっくりと身体を降りていく。少しづつ、じり、じりと降りていくたびに、彼女が軽くのけぞり、会社にいるときには考えられないような、甘く切ない声を絞るように出した。反応が面白くなってきて、右手を肩にまわし胸を長い時間舐めまわすといきなりそこに左手の中指を、差し込むように添える。とたん、彼女の息が途切れるようになっていき、両足で腕を締め上げてきた。痛い、とわざとらしく声を出して引っ込め、様子を何気に伺う。本当はそんなに痛くなかったはずだった。でも反応が面白くなって、とっさにやってみたのだった。印象に残ったのはそういうところだけだった。あとの事はよく覚えていない。たぶん、ふつうに楽しんだだけだったのだろう。

──ねぇ……

 耽っているところに、不意に彼女から呼びかけられて、おぼろげな美しい画が目の前から消える。ちょっと驚いたが、そのそぶりを見せないよう顔をゆっくりと彼女の方へ向け、返事はせずに目に力を入れて様子を伺う。と、目線に怯えたのか何か言いたげだったが、少しの間何か言おうとしてはみるものの、やがて、少しづつ下を向き、何がしかを語る意欲を次第に失っていった。何を言いたいのかはわかっていた。が、彼女の意を汲んでこのまま引き下がるのも、なんとなく面白くなさそうな気がした。彼女がなぜそうしたいのかは別にどうでもよかったが、事前にその影も感じさせないような、妙な秘密主義がなにか面白くなかった。普通、そういう時は前触れみたいなものがあってしかるべきだと思うのだが、彼女は微かな気配すらも見せてはくれなかった。今日になって、突然だったのだ。どうせそうなるのなら面白い事の一つでもしてやろうかと思えた。彼女の方をけっこうな時間伺いながら、一つ思いつく。

──ねえ、たまには明るくしない?
──……え?

 言うとすぐ立ち上がり、おもむろに、部屋に一つしかない大きな窓のカーテンを勢いよくスライドさせ、サッシも開け放つ。もともと日の光が入ってこないところなのでそう明るくはならなかったが、部屋が真っ暗に近いほどの明るさだったので、ものすごくまぶしく感じる。

──ちょ、ちょっ……

 効果は覿面で、彼女がたちまちうろたえる。それだけでも面白かったが、あえて気にしないふりをして、カバンの中から、あらかじめ買っておいた、普段飲むには上等すぎるだろうワインを取り出し、彼女に突きつけた。

──ねえ、コルク抜きある?
──え……
──いいから、あるんだったら持ってきてよ早く。

 有無を言わさず、まるで部活の後輩に命令するように強く言う。もともと一緒にいた会社でも立場は上だったから、彼女はおとなしく従った。ちょっとして、台所から、100円ショップで買ったような貧弱なコルク抜きを差し出された。思い切った行動をとるには勢いが必要だ。勢いを殺さないよう、ひったくるように受け取ると、力いっぱいコルク抜きをワインのコルクにねじりこみ、頃合を見計らったところで勢いよく引っ張った。コルクはぽぽん、と気持ちいいほど音を立てて抜けた。用済みになったコルク抜きをその辺に放り出し、ワインの中身を、瓶を振り回しながらぶちまけた。彼女はもう、狂人を見るような眼で顔色を伺う。行きがかり上、無視する他にやることはなかった。
 ワインの瓶を空っぽにした後放り投げ、請求書は後で送ってね、と言い残すと、彼女の家を後にした。もう電話は、かかってこないだろう。いつまでも尾を引くのはいやだった。



 帰り道、都電の姿が見える。好きな、古い形の車両だった。あいかわらずちんちんと、鈴のようなものを鳴らして走っている。
 暴れすぎて疲れた体で、通り過ぎる車両をぼうっと見送るうち、なんだか歌が唄いたくなってきた。



散文(批評随筆小説等) 太陽みたいな Copyright 日雇いくん◆hiyatQ6h0c 2005-10-20 21:38:07
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