書評: 『ファザー・ファッカー』/内田春菊
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直木賞だったのか、それとも芥川賞だったのかは既に忘れてしまったが、賞を取り損ねたことで評価(あるいは評判・話題性)を高めた、つまりは売れた内田春菊の『ファザー・ファッカー』。
この本は難しい。3回くらいは読んだ。けれど、僕にはなんだかうまく距離感を取ることが出来ない。
『ファザー・ファッカー』が出た当時、僕はなかなかに内田春菊が好きで、この本も初版で買った。どういう風に言えばいいのだろう? これでは印象に過ぎないが、「しんどい本だなー」と思う。わかるんだけど、積極的に同調し、易々とはわかりたくない。そして、1回読めば「おなかいっぱい」になってしまう。そんな感じが僕はする。
この「おなかいっぱい」感というのは、それだけこの作品が「書ききっている」ということでもあるし、これは僕だけが感じるものではなく、ある種の感受性を持っている読み手が読むと、やはり「おなかいっぱい」になってしまう本ではないだろうか?
「お涙頂戴で終らない、不幸を笑いへと転換しているところが素晴らしい」というような、書評をかつて見たような気もするけど、僕にはあまりそういう風には思えなかった。
どういう見せ方をしようとも、痛いものは痛い。
内田春菊の『ファザー・ファッカー』は、僕にはスピルバーグの『シンドラーのリスト』みたいな感じがする。どっちもいいしすごいんだけど、僕はあんまり好きじゃない。
言いたいことがいっぱいある。「聞いてくれ! わかってくれ!」、そう訴えたくなってしまう気持ちというのも、なんとなくではあるけれどわかる。抱えているにはデカくて重く、せめて「コトバ」として吐き出してしまいたい。それが意図的・意識的であったかどうかはわからない。けれど、「吐いてしまいたい」と願う気持ちは、どこかにあったんじゃないかと思う。そして、おそらく内田はこの「埋葬してしまいたくても、うまく埋葬することが出来ずにいる【じぶん】」に気づいていたのではないだろうか? 僕にはこの『ファザー・ファッカー』という作品が、内田が建てた「かつてのじぶん」への墓標のように見える。
言いたい。聞いて欲しい。わかって欲しい。吐き出してしまいたい。もう忘れてしまいたい。なかったことに出来るなら、いったいどれだけラクなんだろう?
それでもあえて、マンガという作り物で行く。内田春菊のタイトルのつけ方が僕はわりと好きなので、何冊か彼女の文章も読んだ。悪くない。むしろなかなかいいと思う。でも、それほど鮮明には記憶に残っていない。僕にとっての内田春菊はやはり「マンガ家」だ。それは「マンガ作家」であっても構わない。むしろ「マンガ作家」という表現の方が、なんとなくではあるが適切であるようにも思う。
それは内田に文学・文章が向いていないということではない。「確かにマンガだ。けれど、それは雑誌に連載され、やがて捨て去られるものではなく、文学とまた同じように『単行本』という『作品』である」。『単行本』として勝負したい、発表したいと願う内田の描くマンガは、作品と言わせるだけのものを充分に持っている。
それでは、彼女のマンガという作品を僕は何冊読んだのか?というと、僕が読んだものはほんの数作に過ぎない。『ファンダメンタル』はなかなかいい。『目を閉じて抱いて』も確かに魅力的だ。『24,000回の肘鉄』は腐るほど読んだ。彼女のマンガでは僕が一番多く読みまくった作品でもある。
「なかったことに出来るなら、いったいどれだけラクなんだろう?」。そう願ってる。切実に、懸命にそれを祈っている。それでもやはり「なかったこと」には出来ない。そして、出来ないからこそ墓標を建てることでなんとか埋葬した。『ファザー・ファッカー』は内田にとって、「いつかのじぶん」へのレクイエムなのかも知れない。
もう、墓標を建てるくらいしかない。それでもなかったことには出来ないし、完全に「ラクに」なることもない。それをあえて対峙し、そしてなんとか埋葬した内田が、『ファザー・ファッカー』を発表する前に描いた『南くんの恋人』。
僕はこの『南くんの恋人』を描いた内田が一番スゲェ!と思う。