『批評は誰のためのモノか?』
窪ワタル

ネットという媒体は、批評には不向きである。批評の形式の問題ではなく、この媒体の特殊性がそうさせるのである。匿名性が極めて高いこと、垂れ流し的になり易いこと、広く公開され、即座に反応出来るだけに、余計な横槍が入ることもある。そもそも、言葉だけで、リアルタイムかそれに近いやり方でやり取りするのだから、よほど慎重な配慮が必要になる。配慮したつもりでも、誤解も生まれ易い。議論が、作品の中身とは別の所へ飛躍してしまい、ただの揚げ足取りや、誹謗中傷合戦になるに至ってはもう最悪である。

しかし、これらのことは、実は、枝葉の問題に過ぎない。幹は別の所にあるのだ。
賢明な詩人諸氏ならば、そのことにお気付きの方も多い筈だと信ずる。

そう!ネットには批評の役割を誤解している書き手が多いのである!これは憂うべき事態なのですよ、諸君!

反論、抗議は黙殺するという前提に立って敢えて述べたいのは『批評とは誰のためのモノか?』ということについてである。
単刀直入に云おう!『批評とは読者のためのモノ』である

評者は、ある詩に注目し、少なくとも、注目した点においては、その詩を認めているのだ。何の注目もせず、興味も持てない詩に批評など書かない。それでも書くという方は、よほど奇特な人格者か、世話好きで、お節介の過剰な方であろう。そういう評者には、素直に敬服するしかない。しかし、ほとんどの評者は、それ程御立派でもお暇でもないのである。したがって、いわゆる「酷評」に類するものであっても、それが、「誹謗、中傷の域を出ないモノ」でない限り、基本的に善意から生まれていると云ってよいだろう。
なぜなら、批評の役割とは、ある詩について、読者に新しい読み方を提示することを通して、読者の楽しみを、深く、豊かなものにすることなのだから。

その詩と詩人を紹介し、評価し、必要な場合には、推敲を促す。そのことが、詩人本人にとって、次の詩作の糧を与えるとすれば、それは素晴らしくこの上ないことではあるが、そんなことは、あくまで結果であり、副産物に過ぎないのだ。

云い換えれば、批評とは「紹介」のことであり、批評家とは「紹介する人」のことである。詩人の側が、そのことを踏まえずに、「好評」に浮き足立ったり、「酷評」うろたえたり、ましてや反論、抗議などするに至っては、本来なら「無作法者」との謗りを免れない所ではあるまいか。読者と評者との関わりの中には、詩人本人は割り込んではならない、オヨビデナイから失礼である。

こうした理解が前提になっていないのがネットという場なのである。これは大変残念な状態であると云わなければなるまい。このままでは、ネットにおける詩作の発展や、有望な詩人の発掘(或いは育成)、詩の読者獲得の可能性などを、小さく、狭いものにしてしまう遠因ともなりかねないとの恐れは、果たして私だけのものだろうか?

優れた批評のない場には、優れた詩人は生まれにくい。現状、詩人の数に比して、評者の数は余りに少ないが、それだけに、評者の果たす役割は大きい筈である。現在でも、ネットには優れた評者がいくらかはおいでになることを、賢明な詩人諸氏ならばご存知であろう。そうした貴重な評者諸氏が、自由闊達に批評活動を展開出来る環境と、批評と云うものへの理解を確立することこそ、ネット詩の大きな課題であると声を大にしたいのである!

ささやかな自戒と、貴重なネット批評家諸氏への感謝と尊敬を込めて。


散文(批評随筆小説等) 『批評は誰のためのモノか?』 Copyright 窪ワタル 2005-07-26 18:01:03
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