書く動力 6
Dr.Jaco
さて、仕事にかまけているうちに4ヶ月も経ってしまった。と、その間に頭も冷えて
来た。でもまた書いている内に血が昇ってくるのだろう。
いまだに置き去られている登場人物がいる。
・「言葉さん」
・私
・貴方
登場人物の関係は?
・私は「言葉さん」を愛しています。
・愛していることを伝える相手は実は貴方です。
・貴方が理解した時に、「言葉さん」との一方的な愛は双方向的に結実します。
存在するのだが線でなぞれない境界との出会いが「言葉さん」との出会いである。出
会ったのは幼く、愛するなんて単語も知らず、ただ掻き立てられる何かがあった。
その何かはひたすら幻影のまま今に至る。だから、3者の関係もただの措定に過ぎな
いかもしれない。私は真実を追う資格があるほど偉くもない。
前回、その幻影が「近日点に」「来る」と言っていた。「来る」のだろうか。と、思
い直したところから書いている。幻影を敢えてイメージと言い直せば、それが遠ざか
ったり近付いたりするというのも言えてるのだが、「遠ざけたり近付けたりする」と
も言えたりする。遠ざけるのが憎しみで、遠ざかるのがイヤで近付けるのが愛なら、
ありきたりな彼女との関係で終わる。ここまで読んだ人がいるなら、もうそのありき
たり加減にうんざりしているのかもしれない。
大事な事を言い忘れている。結局「言葉さん」が幻影と対峙する私の位置に関わる問
題へ繋がるのであれば、「言葉さん」も「私」も「貴方」も結局私自身に過ぎないと
いうことだ。更にうんざりする。
つまり、私が私に対峙するのなら、「来る」も「近付く」もいっしょくたの話なのだ。
と私の幻の頭が言った
のを私の幻の頭は聞いた
ああ
おお
とかって体は甘えの影に
体を擦り寄せてればいいのね
(「書く動力 4」参照)
って、19年前に書いてみたその内容と、今辿り着く内容が殆ど同じと言うことだ。
関係というものが、結局ニューロンの接合程度だというのと同じかもしれない。
言葉を発するということが、某かの関係を発するということと同義ならば、そして誰
かが発した言葉を受け入れることが受け入れた言葉のイメージを発するということと
同義ならば、結局は全部発しているのである。ここにいる私が全てである。
それで終わらない。
鮮明にものを考えれば考えるほど、世界の中心が自分であるのに、自分が世界の歯車
の一つと思えるようになるのはなぜなのだろうか。皮膚から内と、皮膚から外を接合
しているこの私の皮膚という境界は何なのだろうか。
境界に居て、境界を渡してくれるのが「言葉さん」だと思った。
物理の教科書のように、関係は運動へと展開する。「言葉さん」が外へ橋渡ししてく
れる局面が、モチーフが近寄ってくる=モチーフを手繰り寄せる「愛」だとすれば、
「言葉さん」が沈黙し、ひたすら皮膚の内、血流に向き合う場面が「憎しみ」と称さ
れる。全体に拡大しながら局部的に収縮を止めない空間は宇宙と呼ばれているが、そ
んなリズムセクションに踊らされるヴォーカリストのようなものだ。
逆に、愛憎のフラフープ(前回参照)は、全体に収縮しながら時折爆発的な拡大を見
せる。詩を書くことは、そびえる御神体としての山々になぞらえて、他者の皮膚を見
下ろし、その内に侵入したいという欲望の文字列なのかもしれない。
自らの内部に引きこもることと、他者の内部に潜入したいという妄想の位置対比、逆
転が連続することで動力が生まれ、引きずられていく。
やがて不可能の象徴を「神」と言ってごまかすのは、容易に察しがつくことだ。