故郷
櫟 伽耶
私は自分の生まれた場所の景色を知らない。
私の育った街は、排気ガスと地下鉄の匂いに溢れた、お世辞にも綺麗とは言えないような所だった。
道路には捨てられたタバコの吸い殻とエロ本、公園には割れたビール瓶の破片、それらを見ない振りして通り過ぎていくのが当たり前の生活。
大人達はせわしなく歩いていく。
道路脇にそっと供えられた花にすら気付かない。
子供たちはその中で、まるでポツンと世界に取り残されたようだった。
何をしても大人は見ない、聞かない、知ろうともしない。
良い子の振りして大人達を騙すのはとても簡単だった。
彼らは考えることすら面倒なのだ。
ただ忙しく生き急ぐだけの。
無限の時間をもった子供の方が、よっぽど賢いと言えただろう。
そんなことすら気付かずに、子供を見下すことで彼らは自分の立場に安堵するのだ。
そんな大人達を子供の私は嫌っていた。
大人も、子供も、心はススにまみれていた。
私はこの場所が嫌いだった。
汚い街並み、咳き込むような匂い、色褪せた景色。
作り笑いに見ない振り、馬鹿な振り。
周りの子供達の誰もこの状況を疑問に思わないのかが不服だった。
威張りくさった大人達がこの状況をどうにかしないことが不満だった。
土地も人も、何もかもが嫌いだった。
泥にまみれて野山をかけずり回り、花冠を頭にかかげ、星空を見る。
そんなことは夢のまた夢だった。
服を汚せば怒られる。怪我をしても怒られる。
冠を作れるほどの花畑はどこにもなく、濁った空には星が一つ二つ。
どこか遠くへ行きたかった。
その願いは叶えられた。
私はその場所を捨てた。
今、私は違う土地で暮らしている。
ここも夢に見た場所とは違うけれど、それでもずっとマシだろう。
ここでは道端に名も知らない花があり、澄んだ空がよく見える。
道路は狭いけれど綺麗に掃除され、公園は美しく整備されている。
たかがゴミを捨てに行くだけでも、すれ違う何人もの人に笑顔で挨拶をされる。
ゆっくりとした時間が流れてる。
だけど、何故だろう。
「帰りたい」と思うのは。
あの住みにくい薄汚れた土地を懐かしく思うのは。
思い出すほどに涙が出るのは。
私の故郷は、あの場所以外には有り得なかったのだ。