書くこと。
大山猫
書くことについて考え出すと切りがない。書くことは言葉の中に位置付けられるから、言葉について或る程度捉えておく必要があるが、しかしそれは途方もない相談である。
私が作品を書くのは、文字と言葉と知の特権性、不可侵性を否定する為、言葉をして言葉たり得ない処へと赴かしめる為、かも知れない。とはいえ、問題は書かれたものを焦点としているのであって、書かれたものは―これは私の考え方だが―誰のものでもないし、そもそも何物でもない。書かれたものは或る意味では「存在しない」し、本性を有しない。内部の無い外部、外部の無い内部、疎外、欠損。
私にとっては、自分の作品が理解されるかどうかよりも、私の作品に接した人が、言葉によってそれらから隔離されていたところの身体、世界、他者、生、等々を恢復してくれるかどうかの方が、実は重要である。仮に全く理解されなくても、それによって言葉の持っている不気味さを少しでも感じてくれるのであれば、私の目論見は多少なりとも成功している。
人が文字と言葉無しには生きられないのであれば、せめてそれらの奴隷にならないようにすることこそ、真であり、善であり、美であると考える。従って、それらの概念は常に危険を含んでいる。
(2005/05/30)