宗教にあまり関心も興味もないし、それこそ
現代においては宗教なんてもはや政治と同じような
ものになってしまったのじゃないかとすら感じるの
で宗教について語るのは「七面倒臭い」のですが、
若い頃傾倒した吉本隆明や赤坂憲雄なんかの言説を
今ごろの歳になって「あ、これはまずいんじゃない
かな」と思うときがあります。
心服し尊敬していた思想家、批評家の発言に違和感
を見出したときの気持ちというものは、まあ、長い
呪縛から解放されたような、目からチリが
落ちたような爽やかさもあるのですが
それほどいい気分にもなれない。
問題はかれらの「千石イエス」という人物への評価
です。
千石イエスといっても、
古い話で申し訳ないのですがわかる方いるでしょう
か?
今から45年も前に起きたカルト宗教騒動です。
Wikipediaにはこう紹介されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
様々な関係者の証言を総合すると千石イエスという
人物は三流の詐欺師のような軽い男の条件をそなえ
ていたように見えます。
なにをやっても仕事が長続きせず職を転々として、
キリスト教の研究会のようなものに大した関心もな
いのに首を突っ込むが勉強する気もなく、あまりに
無知、不勉強なので牧師にしてくれといっても教会
から断わられる。気が短くケンカっぱやく、人間と
してもあまり出来た人物ではない。わたしも似たよ
なものですから他人のことをあまりいいたくないの
ですが西成にもこういう人物は山ほどいるので、あ
あ、あのタイプだなとうなづくのです。
不誠実で我が強く自分勝手なのですが不思議に人が
その周囲に集まってくる。わたしのような凡人には
どこがいいのかわからないのですが人が集まってく
る。
ただ、わたし個人は集まってくる人たちの顔ぶれを
みてうんざりする。創価学会の池田大作のよ
うな、もとは不良でチンピラだった男が教祖になる
ようなもので、集まってくる人たちもわたしにはあ
まり上等な人たちのようにみえない。
案の定、この千石という男のもとへも女性たちを中
心に世をはかなんだ人たちが集まってくる。その人
たちを見たことがないし話したこともないのでどう
いう人たちか知らないので好悪の断定はできません。
ただ、
こういうのをみるとなにか千石には人を惹きつける
目に見えない徳目がそなわっていて、わたしたち凡
人にはその良さがみえないだけのように感じるもの
です。
そして世間から人さらいのカルト教祖のように糾弾
されているけど、ほんとうはとてもやさしい人物で、
底しれぬ宗教的な深さをたくわえている存在である
かもしれないと予感させる。
吉本隆明や赤坂憲雄などはそのように見ていた。そ
こで千石イエスを肯定称賛する文章を書く。
わたしも正直なところ千石のような存在を容認する
意見を書いてほしかったところがあり、ほんとうは
凄い先生なんだぜとすぐに異端者を排除する世間に
間違いを知らしめてほしかった。
しかし最近再びその文章を読んで歳を食ったせいな
のか、いやぁ~な気がしてしまった。
吉本は千石をこう評価する。
「彼の若い女の弟子が恋愛関係に悩んで、
生きていく気力がなくなった、だから
おっちゃん一緒に死んで欲しいと言ったとき、
多分、即座に千石さんは「いいよ」と応えたと思う。
あの人はそういうことが言える人でした。
会ってみるとすぐわかりますが、
おおっ、こういうのが本当の意味での宗教的な人
というんだな、と思うはずです。
普通こういうときは、
そんなことで死ぬなんて馬鹿げているとか言って、
説教してしまうに決まってる。
ところが千石イエスはそうじゃなかった。
上下とか、重さ軽さとか、そうした価値観の上下関
係が全然ない人だった。
なかなかそうするのはむずかしいけれども、
千石さんのように“なれれば”・・・・」
(吉本 隆明 茂木 健一郎「すべてを引き受ける」
という思想)
わたしの稚拙な体験からいえば誰からであれ一緒に
死んてくれといわれて「いいよ」というような人間は
非常に危険な人物なのです。
わたしはそういう人間を絶対に信用も信頼もしません。
とくに思想家や宗教者としてはまったく論外の人物で
す。
それにしても親鸞論を書いた吉本ならそういうことは
重々分かっていたはずなのに、何を血迷っていたのか
と改めて吉本の思想や哲学というよりその人間性に不
審を覚えました。
わたしは死ぬのが怖い煩悩具足の凡人だから、とても
一緒に死ねないし、きみも考えなおしなさいと説得し
ます。
そしてそれが宗教者として決して怯懦な態度ではなく
まさしくそのように凡俗でなければならないと思って
いるのです。
わたしが吉本や赤坂に不審を覚えたのは
「なんだ、結局この人たちは子どものように心の中で
は人間の超人性に憧れていたのだ」というあっけない
発見でした。
聖書という物語の主人公イエスがそもそも人類の超人
性への願望の結実であるとすれば、わたしの親鸞は人
間は凡俗の人間であればそれでいいという態度でした。
比類なきやさしさ、比類なき宗教性とはそのようなも
のでなければ意味がない。
イエスのような超人性は結局あらゆる排除や殺戮のも
とになるだけだとわたしは思っているのです。
新約聖書のイエスもその原型は市井から脱落した与太
者のなかにあったのでしょう。
その意味では間違いなく千石イエスは聖書の主人公の
モデルと重なるものがあったと思われます。
しかし.....人類が人間の超人性願望に固執している限
りほんとうの宗教の姿はあらわれてくることはない
でしょう。その程度のこともわからなかったのかと
がっかりしています。