儒教どうでしょう
室町 礼
作家のジャン・ジュネは1947年に常習窃盗で終身刑の
判決を受けたのですが驚いたことにサルトルやコクトー、
モーリアックといった文学思想界のお歴々が政府に圧力
をかけ、大統領恩赦によって事実上その判決を無効にさ
せました。
理由は「ジュネは単なる犯罪者じゃない」というもので
す。
ジュネには文学的才能がある。その才能によって社会貢
献している。生い立ちが不遇である。云々。わたしは少
年の頃この経緯を知って驚きました。多分、お寺に育っ
て儒教的な教えを厳しく受けてきたからだと思いますが
この経緯に激しい反発を覚えました。
まさに知的特権エリート階級の傲慢。ジュネの多重窃
盗によって損失をこうむった一般生活者はどうなるのだ。
どこが社会貢献だ。社会的には徹底的に庶民大衆に迷惑
をかけてきたじゃないか。ジュネの文学はせいぜい知的
エリートたちの「覗き趣味」を満たしてやっていたにす
ぎない。多血質のわたしは憤慨してそれまで読みかけて
いたサルトルの戯曲や小説、思想書を捨てました。(まあ、
わたしのような通俗大衆向けの指向性をもつ感性にはサ
ルトル、あまりにも退屈でしたし理解する能力もなかっ
たのでしょう)
それにサルトルら知的特権エリートたちの「やさしさ」
は小説家の宿命をもって生まれてきたジュネにとっては
「拷問」のようなものじゃなかったかとわたしは思って
います。飼い牛の肉をおいしくするために苦いビールを
与えるようなことを敢えて言いますが、ジュネの文学の
養分は彼が根を伸ばしている大地=生の営みの複雑で混
沌たる世界にある。知的特権エリート層が養分としてい
る書物の本棚ではなかった。ジュネの文学は見かけはと
もかく観念の合成や増幅によって生まれる類の文学では
なく現実世界の矛盾から生まれた桎梏の歯車にギチギチ
としめつけられてそこから吹き出す生理的な体液のよう
なものとしての文学だった。だからジュネがもし刑務所
に収監され、その地獄の鍋の底のような世界で煮えたぎ
られたあげく生まれた文学がどれほどのものであったろ
うかと想像すると「惜しいことをした」とまで思ってし
まうのです。
もちろん、冷酷な見方であると思いますが、でも、サル
トルら観念的な知的特権的エリートたちの加護を得て社
会的な生活を保証されたとたんジュネは小説が書けなく
なりましたよね。わたしにいわせればあたりまえのこと
です。かれの文学の源泉は本棚のある観念世界にあった
のではなくむしろ誰からも救いの手がさしのべられない
当時のフランス底辺生活世界の人間と人間たちが生み出
すつかのまの思想とつかのまのドラマにあったから。
つまりサルトルらはジュネを殺してしまったのです。そ
して一人の楽隠居のおじさんを作り出した。果たしてジ
ュネにとってそれがよかったのでしょうか。今更ジュネ
に本棚を漁って観念的な概念や思想を頭に溜め込み、そ
れをこねくり回して小説を書けなどといっても天性の作
家であったジュネにそんなこと出来ません。
まさか当人も刑務所から解放されて知的エリートとして
フランス文学思想界に迎え入れられたとたん急に書けな
くなるなんて思ってもみなかったのじゃないでしょうか。
それはともかく、
もしサルトルら特権的エリート思想家らに儒教の精神が
少しでもあればジュネがどれほど偉大な才能の人であっ
ても生活者としては一個の市民にすぎず、社会的に公平
な裁きを受けさせるのが当然という。このあたりまえの
理屈を理解できたことでしょう。そういうあたりまえの
公平な儒教道徳が発動せず、ジュネを特権的に解放した
ことはのちに禍根を残す大きな問題でした。
そういうことをやったのが西欧哲学思想の指導的立場に
ある知的エリート(日本の貧弱なインテリと違って大統
領を動かして法を無効化できるのだから特権的知的エリ
ートです)であったことは、ギリシャ以来の西欧哲学思
想の欠点がここにあり、その欠点がいまこの現代、一種
の邪悪として機能しはじめているといっても過言ではな
いでしょう。
こないだyoutubeを流していたら、人殺しテロと殺人を
称賛した島田雅彦や世間知らずの女学生をホテルに連れ
込んでパワハラ、セクハラセックスをしていた宮台真司
らが「戦争と平和」という題目で公開討論会をしていた。
その内容の稚拙さはともかく、この方々には儒教的な倫
理とか道徳とかいうものがないのか?と開いた口がふさ
がらなかった。わたしは宮台への襲撃事件なんか当初か
ら、宮台があたりかまわず女学生をホテルに連れ込むか
ら女性の彼氏あるいは彼氏だった男から恨みを買って
襲撃を受けたに違いないという憶測を書いていた。
いい歳をして恥ずかしい男だし、それは島田もそうだ。
そういう連中が恥ずかしげもなく「戦争と平和」。顎
が外れそうになった。観念だけで生きているから
平気でこういうことができるか。
儒教的教育を受けたわたしなどには到底理解し難い。
儒教などといっても正直いいますと
「人生とは人の生きる道である」みたいに同義反復のよ
うなすかっすかの空気みたいに頼りのないはなしが多く
てぶっちゃけ知的興奮はない。安藤昌益のように農業従
事をもとにした公平で自然な社会を説く言説など読んで
も数行で眠くなる。つまりまあ西欧哲学思想のような知
的コーフンを催させるゲーム性はないのです。電話帳を
読むのと同じくらいの苦痛です。
でもですね、読んでもなんの面白さも手応えもない代わ
りに何の重荷もないのですね、これが。まさに息をすう
ような、水を飲むような自然な負担のなさ。言説とは本
来そういものであったのかと目を開く。
でまあ、中国の古代からの儒教もそうですがいってるこ
とは簡単に集約できると思うのです。
誠実であれ。ウソをつくな。人には親切に。etc要する
に仁義礼節です。
自分の観念を盲信するのではなく他者との関係性におい
て礼節をもって規範的に行動することを求めている。
それは西欧のカント哲学でいうならば定言命法です。ご
ちゃごちゃ屁理屈はいらない。共同社会ではとにかくこ
れを守れ!というやつです。戦後GHQの対日占領政策に
よって「教育勅語」のようなものは悪者扱いされてきま
したが、ちゃんと読んでませんけどそれほど悪いものじ
ゃないような気がしています。
父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ
德器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ
常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
以上十項目、
これを定言命法として国民に要請している。
退屈ちゃ退屈な勅語ですが
今の腐敗した日本の愚かで邪悪な大学教授や作家、思想
家、テレビ関係者、タレントたちに
いや、すべての学生たちに眠くなってもいいから毎日
暗唱しろとおすすめしたいですねえ。
わたしが無理だからあなたも無理かもしれませんがねえ。