文学の崩壊
室町 礼

お葬式のように陰鬱な雰囲気のなかでリベラルを自称
する弁護士、批評家、作家の方々が弱々しげに、その
くせ断定的に、そのくせに何やら視聴者におもねるよ
うにぼそぼそと社会正義を語っている。
「サンデーモーニング」という報道番組らしい。
この番組、なぜかわたしには吐き気を催させるほど穢
らしく映る。
たぶんわたしがこの人たちとは違って不正の人、心の
狭い人、意地汚い人なんだからでしょうけど、
シェイクスピア作『マクベス』にこんなセリフがあった。
「きれいは汚い。汚いはきれい」
若いころ、この言葉を知って衝撃を受けた。シェイク
スピアは凡俗には知り得ないこんな究極の真理をなぜ
弁えていたのだろう? 非常に単純に、言葉の裏を返
しているだけなんだけど、奥が深い。
文字通りの天才だとおもったが、今はこう考えている。
当時の演劇界では複数による脚本制作が一般的だった
らしいから一個人の発想ではなくおそらくシェイクス
ピアという劇作集団の中に世知に長けた無名の一般生
活者がいてその哲学が関与していたのではないか。テレビが
テレビを疑ったり批判しないように机上の知性という
ものは、知性を疑ったりしないものだ。もちろん哲学
思想史を紐解けばソクラテスやニーチェ、カント、デ
カルト、ルソーなどが知性に対して形だけの疑問を投
げかけているが、本質的に知性を疑えるのは大衆だけ
であると個人的には思っている。
とはいえ時代の変転のせいがあるとしても今どきの事
情の複雑さまではいい切れていないような気がする。
何かが足りない。
「きれいは汚い。汚いはきれい」の真ん中。
汚くもきれいでもないところ、そこからの思想── 
重層的な非決定というレイヤーが一枚欠けているよう
な気がする。
「サンデーモーニング」という吐き気がするほど穢れ
た報道番組などに出演する自称"リベラル市民"の作家、
詩人、批評家、弁護士、芸人の方々はなるほど頭がい
いし学歴もあるが、決定的な人間的欠陥がある。欠損
といってもいい。どれほど頭がよくても自己を対象化
できていないのだ。
知能のコンテストは偏差値教育で競わされる。しかし
人間性の優劣は倫理の最も高いところを目指して正
論の囲いこみではじまる。つまりだれよりもわたしは
人間的であると証明したものがその分野では勝ちなの
だ。しかしそんなときのその人物の有り様を外から眺
めてみるとき、いかほどに卑しいか、本人は気づかな
いのだろうか。「サンデーモーニング」のように猫な
で声で正義を語っているつもりが実は姑息な倫理の囲
い込みをやって倫理のお山のてっぺんで鼻高々に「ど
うだあ、おれって凄いだろ」とやっているだけである
ことに気づかない人たち。しかも情報が正しければい
いが引用元がすべて文春などという三面記事週刊誌な
のだから大丈夫なのかと思う。
天才であっても秀才であっても文豪でも大思想家であ
っても自己を対象化できない人間はイヌ・ネコと変わ
らないとわたしは思っている。つまり意識の自在さこ
そが人間性を決定するのだが、残念なことに意識の問
題は知能ほどには重要視されていない。
大事なことはそういう自己の観察視ではないか─。
しかし、まてよ、と思う。
「きれいは汚い。汚いはきれい」という言明は人間の
そういった意識の自在さの必要性を示唆しているので
はないのか。世の真実を射ているだけではなくある
現象や言明に意識が固執してはいけないと教えている
のかもしれない。
そうだとすればやっぱりシェークスピアは只者ではな
い。重層的な非決定というレイヤーがすでに重ねられ
ていたのだ。
それにしてもサヨクリベラルと目されている人たちは
どうして正義や真実をふり回す己の愚昧さや滑稽さ、
危険性に気がつかないのだろう。そろいもそろって残
念なことに自己をふりかえるという機序が欠損してい
るとしか思えない。

辺見庸という人物がいる。もと新聞記者で今は作家と
いうことになっている。書かれたものを見る限りでは
良い人だと思う。そして多分シェークスピアのいう通
りそういう人物はろくでもない人間性の影をもってい
る。残念なのは1970年代あたりまでの日本の作家や詩
人たちは人間には必ず二面性、つまり光が強く当たれ
ばくっきりと強い影ができることを知っていたから、
必ずその影を引きづって生きなければならない自分を
光と同時に描いた。だからことばに様々な陰影やさざ
波が生まれ深く心に響くものになっていた。
しかし今の作家、詩人たちはそういうものを頭からすっ
とばしている。ある意味、文学ではなく政治なのだ。
正義しかないのだ。そして自分は正義だと思っている。
そして不思議なことに(彼らにとっては当たり前なん
でしょうけど)必ず哲学者や思想家、詩人などの難解
なことばが、自分が正義で良い人の根拠であるかのよ
うに引用される。
たとえば辺見はネット上のブログにて毎日、短い日記
を書いているが、最新の4月3日のものはこうである。

「感官の直接的な現在の与件に、われわれは過去の
経験の細部を無数に混ぜ込んでいる。ほとんどの場
合、そうした記憶のほうが現実の知覚に取って代わ
ってしまい、そうなると知覚のうちでわれわれが保
持するのは、何らかの標識、過去の古いイマージュ
を想起させるただの「 記号」ばかりとなる。」
(『物質と記憶』)
http://yo-hemmi.net/article/513464156.html
ベルグソンの難解な哲学を語っているがなんのことは
ない、歳食って頭がぼけてきたといってるだけだ。そ
なんことを語るのになぜベルグソンをもってこなけれ
ばならないのか、ツクズク、知性をひけらかさずをえ
ない今どきのサヨクリベラルの残骸に哀れをすら催す。
その前の4月2日のものはこうである。

「ぼくの根は世界の深いところへ向かって、レンガ
作りの乾いた地面と湿った大地を降り、鉛や銀の鉱
脈を降っていく。ぼくはすべて繊維だ。揺られると
必ず震えて、肋骨には大地の重みがのしかかる。地
上ではぼくの眼は緑色の葉で盲目だ。・・・」
(ヴァージニア・ウルフ『波』)
http://yo-hemmi.net/article/513436970.html
文句なく素晴らしい描写だと思うけど、だからといって
最後に

 トランプ政権は文字通りならず者集団である。

と書いている。
こんな愚劣な、人間への見識も世界洞察も正義も倫理
もない狂った政治的発言のために、いかにも知識人ら
しく引用されたヴァージニア・ウルフもひどい迷惑だ
と思う。訳者の中村佐喜子も迷惑だろうな。いや、知
らんけど。

トランプが何をしているか、何を考えているか、一ミ
リも知らないで、知的エリートたちの空気のようなも
ので辺見はトランプを批判している。
最新のトランプの発言は英国首相に表現の自由を求め
るものだった。
トランプが英国に要求!言論の自由がなければ自由貿
易はない【及川幸久】
https://www.youtube.com/watch?v=WbXsGnSxWQs&t=229s
おそらく辺見は今の英国が戦前のドイツのようなファ
シズム国家になっていることも知らないのだろう。
あるいは辺見はトランプと副大統領のJ・D・ヴァンス
が必死でウクライナの無茶な戦争を辞めさせようと死
に物狂いで戦っていることも知らないのだろう。いや、
それは辺見だけではない。日本の詩人、作家、批評家
らのすべてが今や盲目になって戦前の大政翼賛に迎合
している。
そのことはいずれ身をもって知ることになるだろう。
いずれにせよ今の日本の文学はすべて政治的な言説に
なり、政治的な言説はすべて文学になっている。
文学は崩壊した、といっちゃってもいいかもしれない。


散文(批評随筆小説等) 文学の崩壊 Copyright 室町 礼 2025-04-04 09:53:05
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