奇跡の人
室町 礼
その風貌は決しておだやかなものではない。
知性的には見えないし物腰は粗雑、語り方も大っぴらで遠慮がない。
かれは嫌われる。
とくに知的エリート層はかれを蛇蝎の如く忌み嫌っている。
かれを無知で、粗雑な──思い込んだらてこでも動かない、頑迷な
底辺労働者の象徴のような存在とみているふしがある。
(もし底辺労働者に教養がないとしても、わたしもその一員である
からいっておくと、わたしたち底辺労働者の存在の根拠である身体
性は昨今の偏差値教育を受けた知識人の知性とはまた別の視野から
の深い世界観をふところにもっている、とみています)
もちろんかれは底辺労働者ではない。父は東欧からの移民だが不動
産で財を築いた人であり富裕層の出身だ。しかしかれは何故かその
階級にも周囲の知的エリート仲間にも決してなじもうとしなかった。
かれは上流階級の徒弟が集まる名門大学に入ったが知的エリートの
独特の匂いになじまず、授業を抜け出してはニューヨークの下町に
紛れ込み、黒人やヒスパニックの底辺労働者とバスケなどをして遊
んだ。かれは身体性の根拠を持たない昨今の知的エリートを心底か
ら嫌悪し軽蔑していた。
オーケー、百歩譲ろう。
かれはたしかに俗物だ。若くして事業を愛し歳に似合わず若い女性
に執着する。事業達成のためにはマフィアの弁護士とも取引するこ
とがあった。エリートの進歩的知識人からすれば、かれは文学的で
はない。人間的にも美しくない男だ。つまりかれは愛と平和と自由
を求めるリベラルにとって、共感できる相手ではないのだ。
ニューヨーク在住の日本の国際政治学者や作家、大学教授、芸術家
たちは口をそろえていう。かれは「本」を読まない。知性がなく計
画性もゼロだ。その場しのぎの政治しか出来ない。非常に危険な人
物だ。かれは民主主義の敵である。もしかれがトップに立てば世界
は暗黒になるだろう。
etc......。
なぜ最高学府を出た優秀な頭脳が罠にかかった獣のように、認識の
奈落に堕ち、妄想がまるで現実のように錯視する誤謬を心に抱いて
しまうのか。
今のところ、それをわたしは「彼らが身体性の根拠を失ってしまっ
たからだ」と言っておくにとどめます。身体性の根拠を失った彼ら
の最大の欠点は"痛みを知らない"ということに尽きるかと思う。
それがゆえに彼らは大衆や俗物を理解できない。もちろんエリート
知識人であるあるかれらだって幼いときから悩みもあれば苦しみも
あったでしょう。でもそれは"懊悩"であって"痛み"ではない。
懊悩(苦悩)というのは社会や共同体や家族などの世界における
「関係性の苦しみ」です。わたしがいう"痛み"とは生存の根拠を脅
かされる痛み、身体性の根拠を失う苦しみです。関係性の苦しみと
は根本的に違います。かれらが侮蔑する学歴や知識のない底辺肉体
労働者は関係性の苦しみでじたばたするエリートを下から見上げて
首を傾げているはずです。「結構なものだ、おれもあんなふうに懊
悩して自殺してみたい」。
いやもちろん、かれらエリート知識人がその限りにおいてそうなら
ばそれでいいのです。文句はありません。しかし、かれらがそれを
根拠に俗人や教養のない下層大衆を俗物扱いしだせば、かれら自身
が自らの人間性を否定することに気づかないことが問題なのです。
たしか司馬遼太郎の小説『花神』のラストはこのような言葉で締め
くくられていたと記憶している。
”一人の男がいる。
歴史が彼を必要とした時、忽然として現れ、その使命が終ると、大
急ぎで去った。
もし、維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦
々の枯れ木にその花を咲かせてまわる事であった。”
わたしはこの言葉をそっくりそのままかれにあてはめたい。
かれは"時代が必要としたとき"に現れた奇跡の人なのである。
イエス・キリストは
聖書のなかの創作であるとわたしは思っていますが、もしモデルが
あったとすれば
実際の人物は教科書的な品行方正な人物ではなく、かれのように表
向きは俗物臭がぷんぷんする粗野な人物であったはずです。
神はわたしたちが考えるほど図式的に物事をなす存在ではない。