2020年の詩的覚書
おまる

私は«詩人»を名乗るほど、自惚れるつもりはないが、職業として詩を書いている人々の作品に、まともに「詩」が成立しているのか?…

例えば某詩誌は「ここに掲載されているのは詩です」と宣言しているわけだ。しかし所詮「プロが判断しています」というだけのことであって、そのロジックや判断の成立根拠を問われるところでは、限界に突きあたる。そもそも「プロ達」においてすらも、何が優れた詩であるのかの意見が違う。

このような「権威」に反旗を翻し、より「民主主義的」に何が詩かを決めようではないかと、ネット詩が生まれたのは、自然の摂理のような気がする。もっとも、これはこれで、その試みに一定の評価はできるとしても、詩誌との明確な差異化があるのかというと、ハッキリしない。

ネットに「詩」があふれている。

散文や音楽や美術など、様式を重視する他の領域(たとえば小説)と比べると、詩は「絶対的」にマイナーである反面、他に対して支配的でもあるという矛盾を孕んでいる。

詩は「気分」が重要であり、そこから横溢する感染力が核心である。けだし、そのような性質が、2010年代以降のSNSと親和していると思われる(カマトトぶっているが、最果タヒなどは、そういった文脈で真性の詩人である)

本当に詩を書きたいのならば、さっさと詩を廃棄するしかない。

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世の中雑音だらけだからさ
聞かなくていい事見なくていいもの会わなくていい人は多い
相互監視の裏にあるのは(お前だけ抜け出すなよ)っていう呪みたいなもん
その背後には嫉妬がある
今こそカオスに乗じ各自押さえ込んできた何かをブチ壊して好きに始めるのがよい
隣のあいつをフルシカトできるのは今

2020年3月22日/与沢 翼 - YOZAWA TSUBASA
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たとえば上記は、もはや古典的な佇まいを持った「詩」である。

まず2020年3月22日という日付に刮目すべきである。コロナという未曽有の(経済的?)危機のさなか、Twitter(X)に投下され、瞬く間にバズった作品。それはなによりも<気分>において、圧倒的に詩的であった。

高浜虚子の高名な言葉に「俳人は100人のうち1人だけがものになり、残り99人はその1人を生きるよすがとすればよい」というものがある。

虚子という人はウンザリさせられるような悪人だったらしい。しかし虚子に限らず、詩人というのは本質的に悪人なのかもしれない。

子供の時から詩に惹かれてきたが、13~14歳の頃、国語の便覧にのっている詩をいくつか読んだのが、原体験だったかもしれない。

多くの詩人たちのメンタリティのそれは、共通した質をもっている。中原中也や石原吉郎。種田山頭火や河東碧梧桐もおそらく。こいつらは、どうしようもなくこらえ性の足りない、人格障害だった。

その傍らで「大人」の系譜というものもある。その代表格が虚子。私にとって虚子の文学はむずかしい。伝記などを読む限り、欲望に素直で、相手を失敗させて自分は成功する…、そのような人物だったと思われる。

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いちごつぶしておくれ
つぶせるいちご
みんなつぶしておくれ
しもやけのような
さむい夕焼けへ
みんなそっくり
つぶしこんでおくれ
しゃっくり出ても
つぶしておくれ
泣いても
じだんだふんでも
いちごつぶしておくれ
ジャムのように夕焼けを
背なかいっぱい
ぬりたくられ
おこってどこかへ
いってしまうまえに
いちごつぶしておくれ
いちご
つぶしておいておくれ

いちごつぶしのうた/石原吉郎
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戦後詩の完成者は谷川雁だといわれる。戦後詩のアイコンといえば石原吉郎である。

石原には「秘密」があって、たとえば復員した後に社会にうまく適用できずに、ひどく悩んでいる。谷川俊太郎らに発見されて「サンチョパンサの帰郷」がヒットしなかったら、戦後社会に見切りをつけて、さっさと自殺していたのかもしれない。たまたま少しの間、生き延びたが、けっきょく死因は自殺だった。

石原の美質はあきらかに「自殺」と切っても切り離せない。この「いちごつぶしのうた」は「水準原点」に収録されている、好きな作品。「水準原点」までは、ラーゲリ体験による「心の傷」の影が残っていて、つまり歌う「対象」があるが、以降は、対象が不在となり、日本の伝統美、様式美が主題となっていく。作品の末尾には、遺書というほかない作品が書かれてある。

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たったいっぺんも悪いことをしなかった
アリラン爺さんが病みついた
雨の降る日はしがない渡世に理屈をつけろ
貧乏くじはどうだい?
貧乏くじはどうだい?
どこかの後家よ
どこかの後家よ
あたしのあそこいらないか?
おっかあに逃げられた仁義に妙に大きな
耳までが昨日と今日の算盤をはじいている
よしんば明日を占い
アリラン爺さんが死んでも
人夫には勲章は無く
軒下三寸に雨が降る

雨の日/高木護
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石原吉郎も凄いが、もっと凄まじいのが高木護。

石原吉郎と同じく、ハードコアな戦争体験者である。自分はどうも戦地から命からがら帰ってきたという話に惹かれてしまうのだが(詩人ではないが中内功とかも大好きだ)、

この「死線を超えた体験」というものは、どうも決定的な性質を帯びるようなのである。

私の伯祖父はシベリア帰りの人であった。戦後、すでに墓まで作っていたのに、ある日突然ボロ雑巾のような姿で帰ってきた。それから戦死した兄の奥さんと再婚して、公務員として平穏に暮らしていた。

子供の頃、正月やお盆など、節目には必ず挨拶しに行っていたのであるが、関東軍の兵隊だったこと、シベリア抑留のことなどの、話せる事はいくらでもあった筈なのに、ついぞ耳にすることはできなかった。家族にすら一切話さなかったと、伯祖父の葬儀のときに聞いた。

話したくとも、体験が壮絶すぎて、うまく言葉にできなかったのだと思う。普通の人は、そうやって黙り込んでしまうのだろう。

もう一人触れずにはいられない重要人物が、泣く子も黙る谷川俊太郎である。

谷川俊太郎が好きな人には二種類いて、まずある程度詩をたしなむ人、そして、そのほかの詩がよく分からないという「詩盲」の人々である。

同世代の詩人と比べても、ほとんど手合い違いの、冠絶したテクニックと言語的感覚を持っているが、と同時に、その膨大な作品のどこにも歌われるべき「対象」を見出せない。ゆえに、この人と、荻原朔太郎や石原吉郎らとを同日に語ることはできない。

谷川は、熱狂的な「モノ」への偏愛を告白していて、その関心は家電であり、車であり、アマチュア無線にプラモデルと、いろいろなアイテムに及ぶのであるが、インタビューで、ほんとうに子供のように嬉々として語っている。

この無垢性と、何べんも奥さんをとっかえひっかえする女性遍歴は、表裏一体なのではないだろうか?...少なくとも、トロットロのロマンチストなんでしょうね。名声により過剰に膨らまされているが、その実像は真性の詩人ではなく、ヴィヴィッドな俗物詩人でないかと思う。

しかし唯一「コカコーラ・レッスン」の頃の作品群は、なかなかコクがあって、良いのである。とくに同時期に発表された「タラマイカ偽書残闕」は谷俊の最大傑作であるといわれる(私は大した作品とは思わないが)いずれも、奇妙で空虚なのだが、こんなカッチリしたものも書けてしまうのか?という驚きが先にくる。

最近はノーベル賞候補とまで目されている川上未映子という、芸能人みたいな作家がいるが、もう10ナン年くらい前だろうか、NHKの番組でゴッホをテーマにした詩を朗読しているのを、たまたま見かけて、それは「ゴッホ、めっちゃ頑張ったんやな...(泣)」みたいな糞ポエムで、銭湯のテレビにむかって思わず「○○よ」と罵ったことがある。未だに売れてるらしいが一冊も読んだことがない。

かつて「詩は散文である」と言った思想家がいる。ぱっと見、何を言っているのか、ちょっとよく分からないが、言葉を眺めているうちに、たしかにそうだよなという気分になってくる。この短い言葉には、詩を書く、という「意志」の不可欠さが示されている。

すくなくとも私にとっての«真性の詩»とは、中原中也でも、石原吉朗でもない。ましてや谷川俊太郎なんぞには、不足感しかない。私にとっては、孫文が書いたアジビラや、南北戦争中のリンカーンの演説、毛沢東の理論などに、むしろ強烈な「詩」という感じを受ける。強固な詩的決断というものが、文学を超えて、あり得るのだ。

で、トランプの話をちょっとすると、2020年の、あの一連の事件はアメリカの歴史から見ると、ちっちゃさ感をぬぐえない。民主党のウルトラC選挙戦術も、さもありなんという気しかしない。米帝ではいつものことである。

トランプは、ルーズベルトのように、司法や軍部の弱みをきっちり握って、政界に君臨するような、本当の「独裁者」ではない。一部の人々から好まれるのは、この「弱さ」ゆえである。トランプの判断力も世界観も、(同時代人のプーチンと比較しても)欠点だらけだ。目の前のことしか見ていない人間である。

2010年代、トランプ政権中は、ほとんどの左翼、リベラル、アーティストが黙認という態度をとっていた。つまり最弱の態度で臨んでいたことになるが、ではトランプ本人に「熱狂」を受け入れる«ヴィジョン»があったのか?というと、甚だ疑問なのである。

なお、この知識人たちの黙認の意味にしても、二段階に分けて考える必要がある。まず第一に、トランプ政権初期に「これは一過性の現象に過ぎないのだから、彼が自滅するまで間、やり過ごせばいい」という判断があった。

次に、2020年の大統領選挙の一連の騒動である。この選挙でトランプは史上稀にみる投票数を獲得した(私は陰謀論に与する者ではないが、これは事実なので指摘せざるをえない)その過程でQアノンのような、トランプ膝下の影響工作に感染した者たちが大量に出てきた。

この過程において、知識人たちの黙認の意味も変わってきた。いわゆる二極化の問題が、乗り越え不能な”呪い”として再確認されたのである。しかし、歴史を振り返ると、この二極化構造は一瞬にして氷解する性質のものであると、私には思えるのだ。20世紀のナチスの歴史を見よ。

してみると、もっとも深刻であると思われるのは、現代のインテリも大衆も(そしてトランプすらも)同様に美学がないことであろう。Qアノンみたいな馬鹿にしても「僕達はファシストじゃない!」と一様にいうのだから救いようがない。

トランプには(その初期においては)確かに未来を感じさせるものがあった。トランプが本心で思いえがいていたことが何であったのか?それは私にもうかがい知れない点も数多くあるが、冷静に見ると、じつはマッチョな「タフなアメリカ人」像という感じは見当たらなかった。民衆がトランプに託したであろう、かつてアメリカが謳歌した野蛮な「自由」と理想の復活は、幻想だったのである。


散文(批評随筆小説等) 2020年の詩的覚書 Copyright おまる 2024-11-10 08:33:09
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