日記(血、生活、光、・・・)
由比良 倖
11月3日(日)、
朝、生まれて初めて俳句を書く。現代詩フォーラムで、森田拓也さんに勧められたので、何となく書き始めたのですが、思っていたより数倍ハードだった。短歌とは全く別の表現手段なんだな、と改めて思った。とにかく情景と空気感を明確に掴まなければ、全く言葉が出て来ない。午前中いっぱい考えに考えて、やっと九句だけ書いた。完成度は全然高くないと思うけど、個人的には本気で書きました。
書き終えた後は、しばらく味わったことが無いほどぐったりと疲れて、ぱたんと倒れるように寝てしまう。心地よい疲れ。
11月4日(月)、
朝、八時過ぎに起きる。最近寝不足で、さらに俳句を書いて疲れていたとは言え、おそらく十七時間くらいこんこんと眠っていた。過眠症と言ってもいいくらいだ。自己嫌悪に煮詰められたように重たい身体と頭痛。眠気だけは心身から洗い流されていたので、しばらく、多分歯が痛む人のような表情をして椅子に坐っていたんだけど、あまりに気分が悪いので、お酒を出してきて安定剤や眠剤といっしょに飲む。
それから読みかけだった二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』の頁を捲る。捲り続ける。
11月5日(火)、
午前十時に起きる。昨夜は二十時には寝てしまったはずだから、十四時間も眠っていたことになる。季節の変わり目だからかな? 目が覚めていたけど、何もしたくなかったので、U-NEXTを開いて、何となく目に付いた『パリタクシー』という映画を見てた。人生に疲れ切って苛々しているタクシーの運転手と、これから老人ホームに向かう死にかけのお婆さんが、タクシーの中で会話をするという、それだけの話。
本当に何となく見ていたんだけど、途中から何故か涙がぽろぽろ流れてきて、これは例えば本を読んでいるときに、読みながら全然泣かないのだけど、ひと休みして頁の合間に顔を埋めて、紙と活字の匂いを嗅いでいたら、内容が思い出のように溶け合って急に泣けてくるのと似ていて、フランスの作品だからかなあ、起承転結というより、香水の匂いの移り変わりのように淡くて、けれどしっかりした流れのある映画だと思った。
殺伐としたトップノート、甘いミドルノート、仄かでスパイシーな残り香としてのラストノート。シトラス系というよりは、都会の硬質さにノスタルジーなお菓子の匂いが混ざり合ったような。劇的なクライマックスではなく、雰囲気の触感の推移で、生理的に泣かせに掛かってくるような感じ。
無愛想極まりない運転手(そして意外にも東京とあまり変わらない、雑然としたパリの大通り)が、数時間(映画の中では数十分)の内に、客であるお婆さんと一緒にディナーを食べるくらい打ち解けて、笑顔が増えて、甘い雰囲気が拡がったところで、冷たい街外れの老人施設にお婆さんはあっけなく消えていく。
ゆっくりと生理現象をコントロールされてしまったような映画体験でした。涙も重たくなくて、僕は泣くと大抵頭ががんがん痛くなるのに、この映画で流した涙は、逆に重たさを洗い流してくれるようで、安直にも、僕にとっての未来が少し軽やかに感じられたというか、九二歳のお婆さんが四六歳の運転手に、「あなたはこれから冒険に出るの。私には分かる」と言ったのを僕も真に受けて、見終えた後、一時間くらいは、僕も旅に出ようかと割合本気で考えてしまったのでした。
午後、何時間にも渡って俳句をひねり出そうとしていたのだけど、どうしても、ほとんど一句も書けなかった。僕には短歌の方が向いていると思った。だからこそ向いていない俳句にも挑戦してみたいし、句作はすごく僕の言葉を拡げてくれると思うんだけど。それにしても難しい。一応十二句書いてみたのだけど、これは俳句と言うより、短歌ではないのか、と呼べるものにしかならなかった。
ですが、また俳句には挑戦してみたい。僕には実感が希薄だと思うので、まさに実感だけをピンポイントで描く俳句には、学ぶべきものがとても多いと思う。
11月6日(水)、
午前十一時に起きる。眠るのに疲れた。今日も十四時間も眠っていた。一体僕の身体(頭?)はどうしてしまったんだろう? また映画でも見ようと思って『マイビューティフルガーデン』というイギリスの映画を見る。イギリスの庭って綺麗だな、という以外、あまり感想はありません。
「ここはあなたがいていい場所なんですよ」と言われるよりも「あなたには本来住むべき場所があった、それはここではない」と言われた方がずっと嬉しいかもしれない。『マイビューティフルガーデン』では、主人公は最初からいた場所にどんどん受け入れられていく。そして彼女は作家でもあって、自作の物語の中で、ひとりぼっちの飛べない鳥に「生きていてもいいんだよ」というメッセージを与える。
昨日見た『パリタクシー』の方が、まだ共感出来た理由は、多分お婆さんが運転手に「運転手のままでいいんだよ」なんて言わないからなのかな、と思ったりする。僕は「死んでもいい、あなたはここでは生きられないのだから」と言われた方がすとんと納得出来ると思う。死ぬために本を読んでいるのか、とさえ思う。「文字の中、僕の故郷を探してる」という下手な俳句(?)を思い付く。「生きるほど僕は僕から離れてく」とか。どこかに僕のための場所があるのかもしれない。無いのかも。(この俳句は明らかにこの文章のクオリティを落としている。俳句が上手になりたい。)
ずーっと、渇望している人が好きなのかな? ニック・ドレイクもそうだし、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』もそうだよね。彼らは常に欠けている。でも欠けてない人間なんていないんだ。「欠けたままでいいんだよ」なんて悲しいことは言わないで欲しい。欠落を受け入れる、あるいは忘れることは、ぼんやりとした丸っこい存在になって、単にみんなと横並びになれる、ということしか意味しない。ぼんやりとした集団は怖い。ひりひりとした傷口を抱えたままのあなたは、吐き気がするほどその集団を忌避していた。
「みんな同じなんだよ、みんな辛い」そんな訳ない。あなた達は生ぬるい。渇きを忘れて、もはや暇つぶしや感情のエンターテイメントしか知らない人間は、死んでもいいんじゃないかと思うけれど(死ね、という意味ではない)、彼らはすごくしぶとい。「時間の流れって早いねえ」とか言ってる。それはね、一日中、心の傷を晒し続け、そしてその中でいくつもの一瞬の光と共鳴してしまうことのかなしさを忘れているからだ。
庭造りに精を出してたら意外にも楽しかった、意外にも嫌な隣人が優しかった、なんていう人生賛歌よりも、かなしみ故に泣き崩れてしまう、傷口と共に生きていく、絶対痛みを忘れないような物語が欲しい。頑張ったら傷が癒えました、なんて嘘だよ。傷は仮縫いの下で疼き続けている。痛み故にではなく、痛みを失いつつある退屈な自分を、人生のせいにして、愚痴っぽくなる。それがハッピーエンドのその先にある、現実の「生活」であって、それは「生」ではない。
もし、あなたが本当に自分を、すぐにでも死にゆく存在だと本当に認識したなら、この世には、もう次の瞬間には出会えない色彩と光に溢れていることに、気付かずにはいられない。死は素晴らしいものだ。それは例え引き籠もっていても、この一瞬を、もし僕が一瞬でも気を抜いていたら出会えなかった、特別な一瞬にしてくれるからだ。永遠に生きられるなら、何度でも出会えるであろう瞬間に、人はみんな飽きてしまうだろう。たとえ一秒後に死んでもいい。今この瞬間の僕が目覚めているならば。この一瞬が特別なものであるならば。
それなのに僕は反逆しない。みんなの傷口を開いて回るようなことはしない。僕は彼らのぼんやりに飲まれていく。窒息気味だ。多勢に無勢だ。太宰治じゃないけど、僕はこれでも戦っている。僕はみんなにきらきらした生を生きて欲しいと願っている。けれどそう言うと「人それぞれ」とか、「理想の押し付け」だとか、「あなたのためを思って、という言葉ほど腹の立つものはない」と言われたりする。やんわりと避けられる。段々僕は、僕自身を他人にとって迷惑な存在でしかないと考え始める。
僕はとても疲れている。でも少なくとも僕はまだ生きている。有り難いことに言葉がある。言葉は僕が伝達出来る以上のことを伝えてくれる。僕のひとりごとが、誰かのひとりごとに混ざり合い、反応し合うことも、無いとは言えないからだ。そしてもちろん、言葉の中には仲間がいる。本の中には、僕よりもずっとずっと真摯に生きてる人たちがいる。音楽の中にも。だから思う。僕自身は消えてもいいから、せめて少しでも生きている人たちを愛し抜くこと、そして生きてる本や音楽を守り抜くこと、生きている言葉や音楽に残り続けて欲しいと願うこと。それが僕の生きている、もしかしたらたったひとつの意味かもしれない。負けそうだけど、生きている限りは、僕は敗者ではない。
言葉に自分の血を込められれば。大好きな音楽を聴きながら、大好きな透明軸の万年筆に、花の名前のインクを入れて書いている。それから、四年間使い続けて、少しガタが来かけているキーボード。アルメニアペーパー(イタリアのお香)、何となく「異次元の花」という語感に漂う紫の匂いが混じった、ゲランの「ラ プティット ローブ ノワール」、それから純粋に懐かしくて買ったシャネルのアリュール・オムと、煙草、それからコーヒーの匂い。いろいろ嗅ぎながら、包まれながら書いている。大好きな世界、大好きなリズム、大好きな空間、四方が数メートルの壁に囲まれた部屋の中、ヘッドホンの中、曲線の混じった宇宙。まずは道具立ての中で、僕は僕の世界を作る。そこから僕は僕を超えていく。
僕が十数年も探し続けていたのは、実は宗教でも思想でもなくて、自分自身だったのだと、最近やっと気付く。一ヶ月ほど前に散文(『ずっと好きでいられますよう』)を書いた頃からかなあ、例えば僕が求めていた「無私、無欲」は自分をぼんやりさせることとは全然関係無くて、寧ろ僕の存在と無私は本来イコールなんだと思うようになったし、本当の僕の言葉とは、僕の心の中から発せられる愛情の光のようなものなんだと思うようになった。そのとき僕は僕であり、同時に僕を超えている。
それにしても。音楽を愛し続けていたい。言葉を、美しいものを愛し続けていたい。目に映る全てに惹き付けられていたい。それなのにまた、夜遅く帰ってきた父が、今夜はどんな軽口を叩くのか、どうやって死にたさの隙を縫って心の熱を守ろうか、守れるのか、僕は自分のホームに戻れるのか、カントリーとランドとハウスはあっても、ユニバースとワールドとホームは見付からないこの世界で、どれだけ堅固な世界観を打ち立てて、心地よいファジーなリズムに乗ろうとも、僕は実は落下しているだけなんじゃないかと、つまりは僕は怯えていて、ただブクブクの泡の中で浮上しようと藻掻いているだけで、何ひとつ形づくれず、統合出来ず、かと言って拡散も分裂も出来ず、ただ骨格の無い不定形なものとして、口らしきもの、指らしきもので、書いているんじゃなくて、ぱくぱく空気を吐き出しているだけのような気がして。弱い弱い崩れそうで負けそうな気持ちがあって。それなのにヘッドホンの中で歌うルー・リードは美しくて。生きていて。年代もののキーボードを打つ感触はたしかで。
信じたい。自分を委ねるのではなく、届かないものに手を伸ばし続ける気持ちで。求め続ける痺れの感覚、痺れの中での確かな感覚、意識、意志や指先の確かなリズム、灼熱の太陽よりも遠い宇宙の中にある、心の中の狂った熱量、その遠さ、そこに指を浸す感覚、細胞が起きていること、絶望しないこと、守り続けたい気持ち、愛おしい確信、確かさ、確かさ、たしかさ、どうか今だけは僕をパソコンの前から引き剥がさないで欲しい。
いつか書けるはずだから。そして言葉のとても、とても奥深くで、あなたに会えるはずだから。
((ひょっとしたら僕が産まれる前の中庭で、僕は生き返るのかもしれない。一点に意識を集中させることが一瞬でも出来たならば、見えるもの全てが、永遠で出来ていることを知ることが出来る。僕にはあやふやな意識しかなくて、生活の空気を吸っては、血管に生活の不安を走らせている。こんな僕の血なんかで書いたって。))
もう明日が来てしまう。また明日が来る。死んでいたくない。信じていたい。できるならば、生きたい。
((自己嫌悪に塗れててもいい。いつかは僕の血が、純真な僕の血となりますよう。))