大雑把なルーレットの上の夜
ホロウ・シカエルボク
鼓動には0・5秒程度の誤差があるように思えた、真夜中のキッチンでシンクの側に腰を掛けて水を飲んでいた、現実感はあまりなかった、と、普通は書くのかもしれないが、それがその日の中では一番の現実として成り立っていた、俺にとって現実とは目に見える世界のことでは無いのだ、あくまでも肉体への反動があるかないか、それだけが俺にとっての現実なのだ、俺は喉を通って腹の底まで落ちていく水の感触を確かめていた、身体が渇いているとそういったことを感じ取るのは容易い、最後に水を飲んだのかいつだったか思い出せなかった、もしかしたらまだ日があるうちだったかもしれない、今日夕飯を取っただろうか?取っているならその時に水分も補給しているはずだ、夕飯は―取った、それにしたって数時間は前だ―眠っていたのか?キッチンに腰を下ろす前はなにをしていた?寝床に居た記憶はなかった、でも、寝床に居なかった記憶もなかった、おそらくは眠っていたのだろう、そう結論付けるしかなかった、そしてその結論は、そこにあってもなくてもどちらでもよかった、身体の中を落ちていく水ほどに現実感を持ってはいなかった、眠っていて起きたからなのかもしれない、まだ身体が目覚めていないのだ、だから上手く思い出せないのだろう、俺はそういう、普通に行われることに関して凄く時間がかかることがある、理解出来ないのだ、その―動作やなんかに対する当然という感覚が―昔はそんなことで苦労することもあった、でも、そんなことは最早どうだっていいのだ、どこの基準がどうだろうが、俺は俺の基準だけで生きているわけだから、そして俺の摂取した水分はあっという間に身体中を駆け巡った、まるで身体の中で霧散したかのようだった、おー、と俺は声を出した、それはトンネルの中のように体内で反響した、ぎぃん、と、内耳で今日な残響があった、エコーだ、と俺は声に出した、別に声を出す必要はなかった、けれど、その日俺が必要としていたのはそんな風に身体の内側で起こる振動を感じることだったのだろう、エコーだ、と俺はもう一度口にした、耳鳴りのようにいくつかの残響がいっぺんに鳴り続けた、それから、コップを片付けて寝床に戻ろうとした、寝室で俺はベッドを見つめて茫然とした、そこに誰かが眠っていた形跡はなかった、俺が朝そこを離れた時と同じ状態で沈黙していた、眠っていたのではなかった、俺はひとつの仮定的な現実を喪失した、ずっとキッチンに居たのかもしれない、深く考えるべきではなかった、俺は今眠ろうとしているのだから…縫い針に差し込まれる糸のようにブランケットの中に滑り込むと、仰向けになって静かに目を閉じた、現実には何もない、それが本当なのだ、現実というのは、いつだってそれを感じられる瞬間にしか存在していないわけだから―日常とか習慣とかを現実のように語る人間は多いけれど、それはただの日常や習慣に過ぎない、目に見えて、感じているから現実と言えると思うのは間違いだ、現実というのはそれが確かにそうだと実感する瞬間のことを言うのだ、つまりそれが、風景であれ動作であれ、自分自身になにかしらの意図を持って語りかけて来る瞬間、現実というのはそういう現象の総称なのだ、愚にもつかない社会的リアリズムの言うことなんか聞いていてもなんの得もない、時間を無駄にするだけのことだ、この現代社会においては、クレバーと言われるもののだいたいは愚考であり愚行だ、どこにも行かない、なにを成すこともない、歯車として優秀なろくでなしどもの言訳の象徴だ、彼らは、自分たちが正しくあるために安直な結論にしか手を触れない、最初に浮かんだ言葉を結論として、さっさと片付けてしまう、そして次の、同じような、取るに足らない出来事を同じように片付けて、満足げに飯を食うのだ、もう一度言う、そんなものは現実じゃない、ただの慣れであり惰性であり―思考を必要としない下らない遊びだ、見上げる天井は時折ぼんやりと歪んだ、きっと明かりがないせいだ、俺はその奇妙な曲線をずっと眺め続けた、そうするうちに眠ってしまえればいいなと思っていたんだ、でも睡魔はやってこなかった、サンドマンは俺の順番を飛ばしたらしい、砂に不義理をした覚えはないんだけどな、けれども俺は、眠れないからといって悩んだりはしない、眠れないのならば眠くなるまで起きていればいいのだ、そういえば、寝つきが悪くなったのは眠る前に本を読む習慣がなくなってからのような気がする、どうしてその習慣がなくなったのか?目を悪くしたからだ、いまでは眼鏡の上からルーペグラスをかけないと本を読むことが出来ない、ベッドには眼鏡やなんかを置くようなスペースがない、スマートにいかないことが多くなって、寝る前の読書という習慣はなくなってしまった、まあ、でも今思えばその習慣には弊害もあった、読む本を間違えると果てしなくページを捲ってしまって読み終える頃には寝る時間が二、三時間しか残されていない、なんてことがよくあった、コーネル・ウールリッチを初めて読んだときはまったく寝る時間を確保出来ないまま仕事に行かなければならなかった、あんなの若かったからこそだよな、今でも集中力は落ちていないけれど、耐久力は随分落ちている、最後に徹夜した時には数日間心房細動が出ていたよ、さて、そんな話はいいとして…眠気を待つまでなにをして過ごそうかな、身体を落ち着かせるためにキッチンで水でも飲むとしようか…。
自由詩
大雑把なルーレットの上の夜
Copyright
ホロウ・シカエルボク
2024-10-19 21:34:35縦