佐々宝砂

蛇が布団の上で死んでいる。いつから死んでいたのか知らない。腐ってはいないが干からび始めている。とても大きな蝿が一匹ぶんぶんと飛んでいる。開け放しの窓から風が激しくて臭いを感じることができない。反故紙がくるくる回っている。やるべきことがあった、蛇に名をつけるのだ。いつか、覚えていないけど、ずっとずっとまえに、この白い蛇は私に何か素敵なものを見せてくれたような記憶がある。でも記憶は曖昧に漂うばかりでその爪先にも触れない。蛇には触れる。乾いた鱗に触れるとさらさらと剥がれた。電話がなる。画面を見なくてもわかる。弟からだ。出るもんか。着信音のダイア・ストレイツ、なんでこんな曲呼び出し音にしたんだっけ。忘れた。私はどんどん忘れてゆく。思い出さなくてもいいから蛇を名付けなくては。鱗は灰色だ。そういえば全体が灰色だ。でも私はこの蛇が輝くように白かったのを知っている。冷たい山脈から吹きくる風に私たちが怯えていた朝、蛇は私たちに船をよこした。船はきらきらする準宝石でできていた。そして私たちは誰もその船に乗ることができなかった。その船は人を乗せるようにできていなかった。船に乗せることができるのは私たちの人生の可能性の一部であり、私たちは自分の人生の一部を鈍いナイフで切り取って乗せねばならなかった。鈍いナイフで切り取った傷口はいつまでもじくじくと痛んだ。船は私たちの人生の一部を乗せると人間の行きつけない世界へと飛んでいった。船を呼んだ蛇は死んだ。そうだ、船がいってしまってからすぐに、蛇は死んだのだ。蛇を名付けなくてはならない。蝿叩きを振って蝿を叩き潰す。追悼の時間に蠅の羽音は要らない。風の音は必要だ。窓は開けたままでいよう。蛇よ、蛇よ、まだ名のない蛇よ、おまえはなぜ白かった。そしてなぜ今は白くない。尋ねて応えがあるわけもなく、死んだものに名前をつけることもできず、私は乾いた鱗に頬を寄せる。


自由詩Copyright 佐々宝砂 2024-05-27 10:21:47
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