システムvs.個人
タオル



私はいま、署名と近場で行われているデモに行くとか
住んでいる市の長に意見書を出すくらいしかできていない。
できれば大きな額を募金したいけど、それもぜんぜん勇気がでない。
といってもあんまりない。老後生きていけない額。
しかし──貯金がすっからかんになってしまっても、いつ死ぬかわからない
彼らと違い、取り戻す方法がないわけでない国にいながらやっぱり躊躇している。


意見書の返事は、市としてイスラエルに抗議文は出さない、
つまり何もしない、だった。
そして陳情書すらコピーを配るのみ、審議しないのが判明した。
なんて人たちを代表に選んでいたのだろう、、、、
あ然とした。
そして放置していたことを悔やんだ。そりゃあ私ごときにできることなど大してないにせよ。
先ずここから始めないといけないなんて。
何となく大丈夫な印象だけで選んでしまっていた。
後々になって、とんでもない人たちに生殺与奪の権を奪われていたとがくぜんとする。

てきとうすぎる私たち。

生殺与奪の権、って大げさな文言だけど、私を生かすも殺すもお上次第っていみだ。
そんなん元々奪えない、私のいのちは誰にも渡せない✨
ではなかったのだ。私もまだそういう"のほほんと”人権を信じきっている部分は大きい(だからデモも行く)
ひとの命をそうかんたんには奪えないからこそ、
もっというと『合法的に』奪うために、権力がある。
それを行使したい人たちがいまの日本の中枢(せいふ)にいる。
信じがたいけど、対イスラエルだけでなく、国内の災害、元旦の能登の地震といい、
彼らのうごきを見ていてだんだん確信していった。

自分の命や、自分の大切なひとやペットたちの命にしか価値がない。
窮屈で醜く、しょっちゅう餌を与えることでしか鎮まらない、甘ったれで、厄介なエゴ。
だから、綺麗な洋服や、美味しい食事、ドラマティックな音楽を過度に必要としてしまう。
それらが手に入らなくて渇望することも、また。
それは内向きで、ひたすら闇で休息したいとねがう、
傷を負ったときとかのちょっとふてくされた陰気な心にも似ている。

それこそ私自身、いまもっとも自覚している抑えがたい私、でもある。

ひょっとしてもっとも傲慢なエゴが満たされているはずの権力者たち、上流階級の人間たち、
彼らにもあるんじゃないかって思う。

もしかすると、私より。

──何が?

それは、『自分だけじゃない、みんなの命がたいせつなんだ』という光を向いて伸びていくような、健全な心。

傷を治したいと思うとき、同時に想像するから。
きれいな風が吹き、緑の丘から眺める、たくさんの色んな人種のひとがいて、
笑ったり泣いたり怒ったりして暮らしている町。
その町へ、元気になった自分が友達を作りにいく。
言葉が通じなくても翻訳機を持って(笑)
持ってなくてもジェスチャーとか絵を描いたりしてがんばったり。
そのときに見れるだろう景色。
写真でしか見たことがなかった繊細な工芸品や、アレ近づくと意外と粗いなーとか(笑)
当然、今までどおり厄介なエゴもくっつけて、死ぬまでつづく人生の一場面。


──バカなことを書いた。

権力者たち、上流階級の社会をぜんぜん知らないから。

彼奴ら、自分らで決めた『下』を殺すことしか考えてないか。
何十年或いは何百年と世襲で温存してきた、自らを優位に立たせ、相手を隷属させるため
恐怖心を植えつけるシステムの”中核”に従って。

でも。

同じ人間だったらって思う。
どんな社会に属していようと、こころにはもともと『光と闇』が備わっているじゃないか。
極端な両面が、すべての人間のこころにもともと植えつけられている。
その両面が持つ可能性は、永遠に消えないはずだ。

いま戦う相手は人間でなく、システムそのものになった。
まえからそうだったにしろ、自覚がたやすくなった。
そしてそのシステムは古くから全く変わらず『人間』が構成している。
人間は、命は、ひとつひとつ尊い。

人間に対しても動物に対しても尊厳を踏みにじるシステムを、残すわけにはいかない。
そして、そのために『システム』が私を踏みにじってきても、負けるわけにはいかない。


散文(批評随筆小説等) システムvs.個人 Copyright タオル 2024-02-26 19:03:15
notebook Home 戻る