金魚すくわれ
からふ

その喧騒の中にあって、ミス・ブランチだけは異次元にひっそりと佇んでいる
ようだった。水槽の中で絶えずうごめいていて他のものはひたりと動くのを止
めている。彼女は金の魚ではないのに金魚という種類だ。まるでこの世の物全
てを挑発してるみたいに光りながら泳いでいる。ミス・ブランチは未婚の女王
だった。何故なら、そこには彼女一匹しかいなかったから。



俺は溜まっていた留守番電話を再生してみる。ボタンを押すとミス・ブランチ
は少しだけこちらを見て、またゆっくりと泳ぎ始めた。一件目、聞いた事もな
い親戚の訃報。俺は手紙を書くためにとがった鉛筆を探し出すのに必死で、実
際にその親戚の名前を聞いた事がないかどうか分からなかった。



二件目、毎月入ってくる趣味の悪いネクタイのセールス。いつもと同じ台詞に
向かって俺にはネクタイは必要がないと毎月のように言わなければならなかっ
たが、それを実感として噛み締める事が出来るので、それはそれで良かった。
鉛筆を見つけて、手紙を書き始める。「こんにちは。季節の変わり目になります
が、お変わりありませんか。」書いてすぐに破り捨てる。まるで変わる事が悪い
事みたいだったから。



三、四件目、恋人の言い訳。どうやらデートの予定を忘れて、友達と遊んでい
たらしい。別にそんな事で俺は怒らない。俺もそんな事は忘れていたからだ。
煙草に火をつけて、ゆっくりと息を吐く。紫色の煙はミス・ブランチの水槽ま
で、いつまでも届かない。綺麗に、綺麗に、窓の外で雲に溶けていく。



五件目、空白。少しだけ風が吹いた。



六件目、いきなり大声がスピーカーから発せられ、音割れをさせている。親父
の説教だ。とりあえず俺に言っても仕方のない事だというのは分かる。それで
もミス・ブランチはゆうゆうと泳ぐ。赤とも銀とも言えない混じった鱗をひね
らせて、波紋を作る。俺は蛇口を捻って、わけもなく手を洗う。



七件目、「おめでとう!」とか「ありがとう!」とか、いろんな声が聞こえる。
すごく嬉しい気はするけど、何がおめでとう!なのか、何がありがとう!なの
かが分からない。「自分のやった事を胸に手を当ててよく考えなさい」という親
父の怒鳴り声を思い出して自分に聞いてみるが、何も思い出せない。ミス・ブ
ランチに聞こうとするが止める。彼女はとても無口だからだ。



八件目、街の騒音で何を言っているのか聞こえない。クラクションの音、人が
歩いていく音、笑い声。その後ろでかろうじてスキャットの様な物が聞こえる。
俺だった。息を荒立てて途切れ途切れに歌っている。歌はとても小さくて、音
痴に生きていた。



九件目は聞かずに消した。どうせミス・ブランチからだ。いつもの事だった。



また手紙を待ちきれず、電話を入れたのだろう。ミス・ブランチの水槽にいつ
もより遅めの餌を入れた。でも、やっぱりミス・ブランチは食べなかった。水
槽の中だけが彼女の世界だからだ。この部屋の中で、俺はミス・ブランチだっ
た。俺は部屋の中でゆうゆうと泳いでいる。


未詩・独白 金魚すくわれ Copyright からふ 2005-05-13 21:02:06
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