読むことのスリル──ひだかたけし小論(3)
朧月夜

第二章 詩人の世俗性


 さて、このような副題をつけてしまいましたが、やはりわたしは迷うのです。というのは、このひだかたけしという詩人の作品には、ほとんど世俗性が見当たらないからです。その詩想はあくまでも澄んでいて、その作品のなかに見出されるのは、純粋な言葉であり、純粋な詩人の想念のみです。例外として、詩人はその個人的な生活に叙述を割くことはありますが、そうした例は稀であり、いささか読者を遠ざけるというきらいが、この作者にないわけではありません。
 なので、わたしは次の詩に氏の世俗性を求めましょう。「ビートルズと自由・直観と感覚」(*1)という詩の一節です。

  ビートルズを初めて聴いた中二の休み時間
  直観と感覚が一体化した

  直観は向こうの奥底からやって来て
  感覚はこちらの世界からやって来て
  繋がり共働した

  僕はこんなにも自由だ
  僕はこんなにも解き放たれ
  僕は自由そのものだ

「世俗性」と単純に言いましたが、こういった詩のなかでも、氏の詩との格闘が行われていることを見ることができます。「直観は向こうの奥底からやって来て/感覚はこちらの世界からやって来て/繋がり共働した」というのは、容易に読者の解釈を許さないような表現でしょう。
 わたしは、ビートルズと言えば「ハード・デイズ・ナイト」や「イエロー・サブマリン」などを知るのみですが。あえて詩の世界で意思表明をしようとしたところ、ひだか氏のビートルズにおける浸透ぶりは、並々ならぬものがあったのでしょう。これについては、氏の生まれた年代、どのような青春時代を過ごしたのか、といったことも関わってくることです。このような小論のなかでは、追いきれない部分です。ですから、そのような無謀な試みもわたしは放棄します。
 氏がビートルズに何を見出したのか、それはこの詩が表明しているように「自由」そのものでしょう。このような言辞は、批評にもなっていませんね。論評の類にもなっていません。ですが、「自由」とは何でしょうか。「Freedom」でしょうか、「Liberty」でしょうか。それとも、それらのどちらにも属さないものでしょうか。
 詩人は、ある詩想に出会ったとき、二通りのしかたで対処します。「それを信じる」「それを疑う」二つの対処方法です。この詩において、あるいはその人生において、ひだかたけし氏はビートルズを信じた。そのことは疑いのないことのように思えます。わたしのような読者にとって、ビートルズはいささか古い時代の音楽、すなわちクラシカルに思えるのですが、青年期の原体験において、ひだか氏はビートルズを「信じた」。そのことは、肯定しても良いことのような気がします。
 わたしは、ビートルズについてさして詳しいわけでもなく、正直に言えば、あまり興味もありません。ですが、一人の詩人が詩の中に音楽を引用するとき、それは本歌取りのような趣きを持ってはいないか、とも思うのです。それは、詩人が自己以外の他者とつながっているということの証明であり、共感のための一本の細い糸でもあります。
 ある、サブカルチャーとしての音楽を愛するとき、その視聴者はすなわち、その曲の愛好者であることを意味します。つまり、一個の「ファン」であるわけです。「ファン」という括りは難しく、単なる追従者であることもあれば、理解者であることもあります。この詩において、ひだかたけし氏はビートルズというひとつの音楽の理解者です。だからこそ、その音楽そのものは逃れて、自分自身の世界へと飛翔していきます。良い芸術とは、その鑑賞者そのものを離脱させるものである、ということがその根本にはあります。ビートルズという音楽を愛しつつ、この作者はビートルズを離れてもいるのです。
 ですが、この章の主張は「詩人の世俗性」ということでした。ですので、もう一篇の詩を引用しましょう。2022年1月に紡がれた、「み空のうた」(*2)という詩の一節です。
 
  ハロー、ハロー
  青い旗が揺れている
  燦々と降り注ぐ光のなか
  どてら姿のおじいさんが過ぎ
  わたしはイートインでコーヒーを啜る
  長閑な午後の一時です

 イートインは、この数年メジャーになってきた、商業の形態ですね。コンビニエンスストアは、今ではなんでも屋という趣があり、それに従事することも、年々大変になってきている。しかし、その給与は薄給で、とても重労働に見合う金額が得られているとは思えない──いいえ、社会時評は辞めましょう。ここは独断的に、そして専制的に、この詩人が真の詩人であるということをのみ、追求していくべきです。
 この詩の本質は、この連の最後にも現れているように、「長閑な午後の一時です」という一点にあります。作者は、一人の客としてコンビニエンスストアのイートインにおり、従業員の多忙など物ともしないかのように、この一日が「長閑」だと思っている。──こんな詩想は、一詩人である作者の傲慢でしょうか?
 昭和初期の作家である梶井基次郎は、かつてこう言いました「強いられているのは永遠の退屈だ」と。この引用は、作者の文章を正確に引用したものだと、記憶しています。昭和初期の作家の根底にあったのは、モラトリアムだ、ということを証左するような文章です。たしかに、梶井基次郎は肺病を患って以降、温泉地である湯ヶ島において、閑寂な日々を過ごしました。しかし、そのような退屈とは、このひだかたけしという詩人の想念とは異なっているような気がします。
「どてら姿のおじいさん」というのも、現在においてあるべき情景描写からは離れているような気がします。これは、果たして詩人の手による写実でしょうか、あるいはフィクションでしょうか。わたし自身は、後者を取りたいように思います。これは、詩人による創作である、と。もっとも、こんな結論はやはり早急に過ぎるかもしれません。作者は、「本当にそんな人物がいたんだよ」と言いたいかもしれません。そのことに対する反論を、わたしは持ってはいません。
 ですが、詩とは一体何でしょうか。抒情でしょうか、写実でしょうか。少ない知識のなか、わたしはこのひだかたけしという詩人が、抒情や写実にはとらわれない詩人である、という認識を持っています。たとえ、それが実際にあったことだとしても、詩人というひとつのフィルターを得たとき、それは一個のフィクション(創作物)になるのです。むしろ、そうした過程なくして、創作というものは存在し得ないでしょう。結論を急ぐようですが、詩とは一個の「創作物」「捏造物」であるのです。
 ここで、詩人における「世俗性」というものが、立ち返って表れてきます。詩は、それが商品のひとつであるという基本から、読者における評価なくしてはなりたちません。そして、大方の詩の読者とは、共感可能であるかどうかによって、詩を判断するものです。詩の作者とは、時代を超えてポピュリストでなければならないのです。ここにもうひとつの「時間」、すなわち「時代性」というものが現れてきます。
 ひだかたけしという詩人は、単純に美しい光景をつむぐ詩人ではありません。そこでは、善意や悪意、世界の残酷性というものも描写されています。そのとき、読者は萎縮してしまうべきでしょうか? そうではありません。読者諸氏は、これらの詩を解体し、読み解き、場合によっては否定してしまっても良いのです。そこに、商品としての詩の価値もあります。ひだかたけし氏の詩は、それをすべて否定してしまっても何かが残る、そのような価値観、あるいは世界観を有しているのです。
 上に引用した「み空のうた」からも、読者は様々な詩想を読み取ることが出来るでしょう。「ハロー、ハロー」……ここで「ハロー」と呼びかけられているのは、現実に詩を読んでいる「あなた」なのか、あるいは「あなた」を超えた「他者」なのか。それは微妙なところです。読者は、「ハロー」と呼びかけられているのが、自分だと思っても良いでしょう。あるいは、はるか遠くにいる第三者だと思っても良いでしょう。それは、詩を読むにあたっての姿勢の違いです。どんな姿勢も、詩を読むに際して否定されるものではないのです。
 世俗性と言えば、「イートイン」という至って世俗的な名辞を、ここで持ち出してくることに、作者の真摯さが伺いとれます。作者は、詩を「はるかな高みにあるもの」とは捉えていません。この作者にとっては、詩とは読者とつながるための手段であり、間接的なコミュニケーションの手法であるのです。そのためにこそ、作者はネット上で詩を発表する、という手段に訴えなければならなくなりました。この作者は、自分の詩に慢心してはいないのです……ですが、このことは、わたしのこの小論よりは後に、彼の詩を正当に評価する評者を待って期待するべき議論でしょう。
 本当に、今現在生きている詩人を評する、というのは難しいものです。こうしたことに挑むわたしというものを、わたしは陰ながら嘲笑しています。それは、自己顕示欲に過ぎないのではないか、対象となる作者を餌とした自己表現に過ぎないのではないか、と。それはそうなのですが、わたしはやはり氏の詩と対決したいとも思うのです。たとえ時間がかかっても、詩の作者と正面から対峙したい、と。
 この「み空のうた」は、短い作品です。全文で10行。現代詩全般においても、氏の作品群においても、短いほうだと言ってよいでしょう。かつて、ジャン・コクトーなどは極めて短い詩を残しましたし、日本における詩歌の伝統も、五七五、あるいは五七五七七という余分なものをそぎ落としたところで、培われてきました。戦後、それが商売にならなければいけないという制約のもとで、戦後詩は長い詩を書くに至りましたが、これが本当の伝統というものでしょうか? さすがに、そうは言い切れないものがあるように思えます。

  高いみ空から降って来る
  ひとつの静かな宿命です

 という、諦観のような言葉で、この「み空のうた」という詩は終わります。このときにわたしが思うのは、このタイトルは詩を書き終えて後に生まれてきたものだろうか、あるいは詩を書くに際して最初に思いついた言葉だろうか? ということです。このことは、詩の本質を置き去っているようにも見えるのですが、わたしにとっては重要なことでもあります。詩が、「み空」から生まれてきたのか、あるいは「み空」へと昇華したのか、という新たな問いを呼び覚ますためです。
 この詩人の詩群を検索した限り、「宿命」という言葉が現れてくるのは、この一度きりです。すなわち、詩人は「宿命」にとらわれてはいない、と言うこともできるでしょう。人は様々なことを、自身が生きるための言い訳にするものですが、このひだかたけしという詩人は「宿命」を言い訳にはしていない。それは、単なる「自己責任」でしょうか? 詩が一個の客体であると考えるとき、そんな答えは安易に過ぎるように思えます。つまり、この詩人は「宿命」に対して喧嘩を売ったのだと、わたしはそう考える次第です。
 さて、詩人の「世俗性」ということに、話を戻しましょう。ですが、この結語は一瞬で終わるかもしれません。わたしは、この詩人の詩をすべて読んだわけではないのですが、初期の詩に次のような一節がありました。
 
  何を待ち続け
  何を求めるの
  名もない日々が
  訳もなく微笑む
  (尾崎豊/゙贖罪゙)

 これは、「切断の虚無」(*3)という詩からの引用です。詩の詩群のなかでは、尾崎豊という歌手に関する言辞は二度出てきます。もちろん、「今のところ」という限定付きです。氏の詩は、氏自身が認めるかどうかは分かりませんが哲学的であり、世俗との接点は、先に書いたようにほとんどありません。あるいは、音楽のみが作者と世間とを結びつけているのでしょうか? それは詩人の心の奥深くに潜り込んでいかなければ、答えの得られない命題であり、今のわたしには重すぎる課題のように思えます。
 この「切断の虚無」という詩も、尾崎豊という世俗的な芸術家に触れながら、作者は非現実、あるいは形而上的な世界へと逃れていきます。
 
  独り在ることのリアリティは個体性は、
  愛の繋がりの中で鮮明に実感され
  孤立の中では、「孤」と「独」が混濁し不鮮明に濁り腐っていくだけなのだ。
  そうして、
  この界にこの界を、独り驚き在る強い意志が削がれていく。
  
 これは、逃亡でしょうか。あるいは自己への回帰でしょうか。音楽とは、氏にとっては詩の深みへと誘う媒体に過ぎないのです。ならば、音楽評論家になれば良いのではないか? そうも思います。そうすれば、氏は著名な音楽評論家にもなり得たでしょう。そして、そこに「世俗性」というものが現れてきたでしょう。しかし、現実はそうはなりませんでした。氏は。音楽を超えて、世俗を超えて、ある高みへと到達してしまうのです。これは、宿命と言っても良い、氏の詩が作者自身に対してもたらす十字架だと言えます。
 わたしは今、氏の詩をあらためて読み進めているのですが、なかなかその「世俗性」に至る鍵を求められないでいます。難解な語彙、独特のレトリックが、それを阻むためです。氏の詩が英訳されたら、あるいはもっと読みやすくなるのでは? とも思うのです。西洋圏の詩は、いわば抽象のなかでこそ生きるものです。隠喩も日本よりも盛んですし、哲学的な表現も音韻によって分かりやすいものとなっています。この詩人の詩がもしも西洋に紹介されたら……あるいは、ポピュラーな(世俗的な)詩にもなり得るのではないでしょうか。しかし、そんな期待と希望も、今は後世の評家に任せるとしましょう。
 氏の詩を読み、その詩が世俗性から離れているように見えるのは、ひとえに、わたしたちが詩的言辞に慣れていないためだと、わたしは結論したいと思います。ある詩人の詩を読み解いていくためには、とっかかりというものが必要です。昭和初期の詩人である中原中也や立原道造などの詩は、一目見ても分かりやすいものです。それに対して、萩原朔太郎や宮沢賢治などの詩は、分かりにくい部類に属するでしょう。では、ひだかたけし氏の詩は? ──氏の詩を読み解いていくためには、読者の力量が試されると言っても良いのだと思います。そのためにこそ、わたしはこの小論の題名を「読むことのスリル」としたのですから。


*1) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=371992
*2) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=368697
*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=318360  


散文(批評随筆小説等) 読むことのスリル──ひだかたけし小論(3) Copyright 朧月夜 2023-03-16 04:38:40
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