愛と赦しの恐ろしさについて
秋田の米はうまい
パウロはキリスト教信者を最も過激に弾圧する
ユダヤ教のファリサイ派でローマ市民という特権の持ち主だった。
突然キリストの霊験により盲目にされたあとは
転身キリスト教を世界宗教にすべくゼウスを信じるアテネ市民に布教を試みたり、暴行されて水路に捨てられたりしたがキリスト教の布教を世界宗教にまで広げる礎を築いた聖人としてルターやアゥグスティヌスなどその後の歴史的偉人を魅力している。何故か死後の様子ではエマニュエルスウェデンボルグに酷評されている。
そんなパウロも登場するシェンケーヴィチの
『クオ・ワディス』は
まだ生前のキリストと会ったことのある使徒が存命し、キリストの顕現や奇跡が無くなってからもキリスト教を布教し続けている時代の物語で、ネロの弾圧が激化し最後にペテロとパウロが処刑されるところまで描かれている。
ペテロは守るべき信者が生きたままたいまつにされ、闘技場で残虐に殺される現状に対し、ローマを一旦離れることを決意する。
そしてアッピア街道を歩いていると、そこに何十年も信じ続け祈り続けた主が姿を表す。
「主よいずこへ」ととっさに声をかけたペテロに対しキリストは
「お前がローマの信徒を見捨てて行こうというのであれば私はもう一度ローマに戻り磔になろう」と言うのだった。
ペテロは生前のキリストから「お前は鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう」と言われ、追手から逃れるために実際にその言葉を言った。
そのペテロが最期のときに再び主からそのように言われたときの、激しい内面の動揺を考えるといたたまれない。その後ペテロはすぐにローマへ引き返し磔にかかった。
ペテロは恐怖でも羞恥でもなく恐らく主から与えられた赦しと愛によって自ら想像も出来ないような残虐な死をむかえたいと切望したのではないか。
それは卑怯者の代名詞のような登場人物のギリシャ人の老人の最期にも描かれている。
老人はネロの横暴を知りながら身の保身の為に上辺だけの同胞の信徒を売り渡した。
そのあと偶然自分が二度家族全員を地獄にたたきおとした過去のあるキリスト教徒の人格者の医者が、たいまつにされ生きたまま火をつけられ絶命する光景を見てしまう。炎の中から覗く医者の憎しみの目と視線があい、老人は許してくれと口走る。医者から
「許す」と言われた瞬間、そのギリシャ人の老人は発狂し自分の頭に土をかけた。その後老人は全く生きる欲望が無くなってしまい、最後は舌を抜かれても猛獣をけしかけられてもネロの横暴の真実を叫ぶことをやめなかった。
自分の罪を全て赦されるということは結果人間を死に向かわせるのだとこの物語を読んで知った。神の愛と赦しほど現実の人間にとって恐ろしいものは無い。
(クオ・ワディスの内容の表記は記憶によるものなので大筋の内容です。一部違う部分もあるかも知れません)