月夜の晩に
shura

月夜の晩に犬を連れて散歩に出た。
境川という神奈川と東京都の県境に流れる川の畔を歩く。
橋のたもとまで来ると何やら小さな生き物が何匹も橋の隅をぞろぞろ
動いている。アメリカザリガニだ。向こう岸に渡ろうとしているようだ。
橋の上に若い男女が腰掛けている。ピアスをした丸坊主の男はコーラ
を飲みながら笑い転げてる。女のほうは黒いワンピースを着て
なにやら無心に食べている。
―やめろってばっ ふはは やめちくりー
男は笑って橋から転げそうだ。
私と犬は知らん顔してザリガニを見ている。
赤いハサミが月明かりに映えて美しい。
やがて女の口から泡がいっぱい出てくる。
男はだんだん真剣な口調になってくる。
―やめてくれ。愛してるから。なっ そんなことすんな
よく見ると女が手にしているのは石鹸だ。
石鹸をなにかナイフのようなもので削っては口に運んでいる。
ぶくぶくぶくぶく女の口から泡が吹き出し、しゃぼんが舞い始める。
半狂乱になって喚いていた男の声が小さくなる。
口はパクパク動いている。だけど声がすぐに消えてしまう。
見るとしゃぼんの中に男の吐き出した言葉がすっぽり入って
ふわふわ浮いている。
「愛してルーッ」
と何度も叫んでいるらしい。
『して』と『愛』と『ルーッ』が交錯しながら、ふわりふわりと宙に舞う。
これまた月明かりに映えて美しい。
そのうち『して』は空高く舞い上がり、『ルーッ』はクルクル回って
風に飛ばされてしまった。
『愛』はどこに行ったのだろうと思ったら、地面にみんな落ちていた。
男は丸坊主の頭を抱えてうずくまってしまった。
女は月を見たまま、相変わらず泡を吐き続けている。
ザリガニが『愛』をはさみで拾い上げて、黙々と向こう岸に行進
していく。
犬が月に向かって一声吼えた。


散文(批評随筆小説等) 月夜の晩に Copyright shura 2022-12-17 20:12:46
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