「解放」の淋しい心地良さ
岡部淳太郎
誰にでも、何かしら似たような経験があるかもしれない。何かが終って、それから解放されたように感じて、一抹の淋しさを感じながらも同時に湧き上がってくる妙な心地良さの感覚を。たとえば学校を卒業したとか、仕事を辞めたとか、恋人と別れたとか、そのような局面において、それらがそれまでの自分を規定していた、あるいはもっと言えば縛りつけていたもののように感じて、そこから離れることである種の解放の感覚を味わうようなことがある。そのような淋しさと、奇妙な心地良さ。
二〇〇七年に「淋しい解放」という詩を書いた。「kader0d」という詩誌にゲスト参加の形で寄稿させてもらい、後に詩集『生の拾遺』(二〇一二年・七月堂)に収録した詩だ。書いた当初はなかなか自信が持てなかったが、ありがたいことに様々な人から高評価をいただき、いまでも自分でも気に入っている詩の一つとなっている。そこでは枯葉が枝から離れて落ちてゆくさまを「ゆるされて/きりはなされた」と言い、また「おちてゆく自由」とも言い表した。「季節はしだいに/淋しいほうへと向かって」ゆきながら「寒さを/早めさせ」てゆく。そして枯葉は集められて「焼かれてのぼって」ゆく。まるで恩寵のように。そしてまた、もう一つの解放のように。
この詩のきっかけはジョン・メレンキャンプというアメリカのロックシンガーのアルバム「The Lonesome Jubilee」にある。若年期から中年期へと至る人の心の揺れを丁寧に追ったこのアルバムの歌詞世界は示唆的であるが、アルバムタイトルにある「jubilee」という言葉が僕の中で引っかかっていた。辞書を引くと様々な意味が出て来るが、そのうちに「カトリックで言う大赦の年」というものがある。つまりは特別に罪を赦されるということだ。この言葉がきっかけとなって、「赦し=解放される」というふうな思いつきからこの詩は生まれた。言ってしまえば。「淋しい解放」という表題は「The Lonesome Jubilee」というアルバムタイトルを自分なりに日本語に置き換えたものでもあったのだ。このような思いつきから枯葉が枝から離れてゆくことを赦しととらえ、そこに「おちてゆく自由」があるのだろうとも考えたわけだ。
内幕がどうあれ、この詩を書いてから何となく僕の中で「解放」だとか「赦し」といったテーマが定着していった。人が何かから離れる時、そこにはある種の「解放」があり、その中には「赦し」も含まれているのではないか。そう考えるようになった。人は常に様々なものに縛られて生きている。それは人が社会的生物である以上、ある程度は仕方がないことであるが、時にそれらから離れて解放され、自由を味わってみたくなることもある。だが、自由には常に責任がともなうし、たった一人で自らを背負いこんでいかねばならないということでもある。そのような責任の重さがあるゆえに、自らすすんで何かに縛られに行くのも、また人の姿でもあるだろう。しかしながら僕が魅かれたのは解放された瞬間の淋しさと、同時に起こる心地良さの感覚であった。そのことをもう少し詳しく見ていこう。
先ほども言ったように、人は常に何かに縛られて生きている。換言してしまうならば、自らを縛るその大元が人を規定しているのだ。仕事に縛られるならば仕事は人を労働者として規定するし、交際している異性に縛られるならば人は恋人として規定される。そのようにして人を縛るものは人を自らの性質によって規定しようとする性質を持つ。だが、疑問なのだが、その人そのままの状態で社会は人を見てはくれないものか。よく子供の頃に「大きくなったら何になりたいですか」という設問がある。それに対して子供たちは何の疑問もなく、男の子であれば野球選手になりたいとか、女の子であればお花屋さんになりたいとか言うのだが、それは自らを規定する元を子供の頃から意識させるということに他ならない。誰も「大きくなったら自分自身になりたい」などとは言わない。自分自身のままでは社会は人を認めてはくれないからだ。だが、ここに社会というものの大きな落とし穴が潜んでいる。何かが人を規定するということは、言い換えれば人を本来の性質から離れさせて自らの性質の中に取りこんでは歪めさせるということでもある。夫婦は夫として妻としての役割を互いに求めるし、会社は仕事をする役割を従業員に求める。それはその人本来の性質からすれば多少なりとも歪んだものである。だから、人が何かに縛られている以上、それはその人本来の姿ではなくどこか歪められた姿になってしまわざるをえない。それが果たして自然な姿であろうかというのは大きな疑問だ。
だから一足飛びに結論を言ってしまうならば、そのような自らを規定するものたちから離れて出来うる限りその人自身でいることが、それぞれに求められている。そうすることが自らの歪みを、ひいては社会全体の歪みを正すことにもつながるのではないかという希望を、僕は持ちたいと思っているのだ。それが困難なことであるのは重々承知の上だ。
もちろん自らを規定するものとはすなわち、自らに安定をもたらすものでもある。人は外から規定されて縛られることによって一種の安定を得る。そうすることで初めて「生活」というものが可能になるだろう。そんなことはわかっている。わかった上であえてそれからの解放を求めているのだ。規定され縛られるということは、あたかも罪によって裁かれ罰せられ服役しているかのようだ。だが、我々は誰も自分が何らかの罪を犯した記憶を持たない。そんな覚えはない。それなのに何かに従属し何かに縛られて、不自由さを感じている。まるで人としてこの世に生まれ落ちたこと自体が罪であるかのごとくだ。我々はそのような原罪めいたものに否をつきつける必要が、時にありはしないだろうか。少なくとも、そのような可能性について少しは考えてみてもいいように思うのだ。
だから、我々は「解放」を必要とする。枯葉が枝から離れて落ちるように、樹木の一部としてではなくただ一枚の枯葉として落ちる自由があってもよい。そうやって落ちて、地表に力なく横たわる時、その瞬間の淋しさと同時に味わう奇妙な快楽。すべての自らを規定し縛ろうとするものから離れてただの自分自身であること。そのような境涯にあっては、もはや何をしても、何もしなくても、いいのだ。それはある種の恩赦。人であることの罪から逃れられる永遠なる一瞬。我々はすべてから赦され、すべてを赦せる境地に立つ。我々はただ一枚の枯葉として落ちながら上ってゆく。そこでは孤独でさえもどこか心地良いのだ。
(二〇二〇年六月)