ランド・オブ・ザ・デッド(黄泉の国)
ホロウ・シカエルボク


深紅の、極細の線が無数に、ありとあらゆる方向に投げ出された髪の毛のように散らばりながら作り上げた景色だった、びっしりと重ねられたその隙間を縫うように、白く、心許ない、かろうじて人のかたちであるかもしれないといった、これまた無数の影が、縁日の金魚のように落ち着きなくうろうろと蠢いていた、空気は打ちっぱなしのコンクリ建築の地下室のようにどっしりとした湿気で満ちていた、俺はおそらく初めてそこに来た誰もがそうするように、唖然として立ち尽くしていた、細く素早い風が一瞬吹いては消えるような音がずっと頭上で繰り返されていた、そうした、五感で感じるすべてのもの以外のなにかが、景色のどこかに、或いはすべてに、明確な殺意のようなものを含んで潜んでいるような気がした、そのせいでずっと落ち着かない気分だった、ほんの少しでも気を抜いたら首を飛ばされるのではないだろうか、陳腐とも言えそうなそんな妄想が、圧倒的な現実感をもってそこにあった、まともな人間のかたちをしているのは俺だけだった、始め、俺は自分が死んでしまったのではないかと思っていたが、どうもそうではないらしかった、ここがどんな世界で、自分がなぜこうしているのかなどまるで理解出来なかったけれど、そのことだけは理解することが出来た、現実世界でも周囲に対して感じている違和感が、ほとんどかたちを変えぬままここにもあったからだ、歩くことが出来るだろうか、一歩踏み出したとたんに、巨大な窯の中に落ちて煮物になるのではないだろうか、そんな気がしてなかなか踏み出せなかった、うろついている白い影は、俺にはまるで関心が無いようだった、それどころか、俺や、周囲を感知しているのかどうかさえ怪しいものだった、ぴったりな言葉を当てるとするならまさに浮遊霊だった、俺は初めて彼らをリアルなものに感じた、共感のようなものだったかもしれない、でも彼らはうろついていること以外はただの影だった、表情も感情もそこには存在しなかった、ここに居ても仕方がない、と諦めて一歩を踏み出した、無数の深紅の線に阻まれてよくわからないが、確かに地面は在るようだった、深紅の線には感触というものがまるで無かった、これはもしかしたら毛細血管のようなものかもしれない、と俺は思った、ああ、なるほど、とふと思い当たる、これは、あの白い影たちが落としていった命なのだろう、感触の無い線を踏みながらただ前方へと歩いた、どこに歩けばいいのかなんて見当もつかなかった、そういう概念がこの世界に在るのかどうかもよくわからなかった、迷った時にはとにかく行動してみることだ、俺はずっとそんな感じでこれまでを生きてきた、ここでもそうした方が良さそうだった、しばらく歩くと、姿の見えないなにかに行く手を阻まれた、俺にはカンのようなものがあった、すぐに、これはドアのようなものかもしれないと思い、ノブを探してみた、旧式の、湯のみのようなかたちのノブが手に触れた、開けてみるとそこにはなにも無かった、無があるだけだった、ドアを境界にして、地上と宇宙が触れあっているみたいな景色だった、俺はドアを閉めて地上を遮断した、そして宇宙の中にただひとりとなった、星だと思ったものはそうではなかった、おそらくは手前の部屋でうろうろしていた白い影のなれの果てだった、段階ごとにドアで区切られているのだな、と理解した、その部屋にはどんな動きも存在しなかった、ただどこまでも続くかのような闇の中に、白い影であったものが縮こまってぽつぽつと浮かんでいるだけだった、どういうわけか俺はその部屋のほうが怖いと感じた、なんの音も無く、動きも無く、もしかしたら時間すら存在していないのかもしれないと感じるその部屋は、ほどなくどうしようもない恐怖を心中に連れてきた、それはやがて津波のようになって心魂を脅かした、駄目だ、飲まれる、危ない…俺は目覚めようとした、その時初めて夢を見ているのだという気がした、けれどそれはただの夢なんかじゃ決してなかった、必死でその世界を拒否し続けていると、やがてがくんという衝撃があり、俺は跳ね起き―ようとしたが出来なかった、身体がどこかに固定されているみたいだった、そしてそれは移動し続けていた、口には酸素マスクのようなものが装着されていた、腕に繋がっているのか、点滴のパックとチューブのようなものが視界に入った、先生、目を覚ましました、と隣にいた女が言った、移動がいったん止められ、わかりますか?と年配の男が俺の顔を覗き込んだ、俺はわかるけどわからない、といった気分を目だけで伝えた、「あなたは道で倒れて運び込まれました、検査の結果脳腫瘍が発見されました、緊急を要するため、いま手術室に向かっているところです、と、医師らしき男はそれだけを一口で説明した、いま麻酔がかかります、すぐに意識がなくなると思います、間違いなく成功すると思います、医師がそれを言うと看護師がなにかを捻り、シューという音がして俺はまた意識を手放した、またあの恐ろしい部屋に誘われたらどうしようと最後に考えたが、考えたところでどうすることも出来なかった、そして、無がやって来た。



自由詩 ランド・オブ・ザ・デッド(黄泉の国) Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-09-14 22:51:57縦
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