長い漏電
ホロウ・シカエルボク


地面に落ちた配電盤は鈍器で何度も殴られたかのように、陥没の挙句にあちこちが断ち切られていた、俺はそれを見下ろしていた、もう何時間も…夏だったが湖に近いその場所は薄ら寒く、薄っすらと霧に包まれていた、配電盤の蓋を開けようとしたけれど歪みが酷過ぎて不可能だった、家屋ひとつ無い小さな草むらにどうしてこんなものが捨てられているのかわからなかった、最初はただ奇妙な感じがした、それだけだった、けれど俺は、数分が経過するころにはそいつから目が離せなくなっていた、魅入られたと言ってもいいかもしれない、俺の中の何かがそいつに反応している、それはもしかしたら共鳴かもしれない、でも俺は突き詰めようとはしなかった、答えを出そうとは思わなかった、少なくとも今は…もう少しその状況を楽しんでいたかった、でも数十分後にはそれは危険なことだったのだと気付いた、そして、気付くのは少し遅過ぎた、薄霧の草むらの中に小さな道路に背を向けるように佇み、俯いて微動だにしない俺は、傍から見ればぼんやりと浮かぶ首吊り死体のように見えたことだろう―まあ、こんな廃道に朝早くから忍び込むもの好きなどそうは居ないだろうが―俺は考えを他へ逸らすことが出来なかった、ずっとその配電盤を眺め続けていた、もはやそいつの有様は俺の中へ住み着いていた、まずいのかもしれない、そんな感覚は古い記憶のように意識の端っこで疼くだけだった、蓋の僅かな亀裂から外界を窺う蛇のように繋がれていた場所から離れた赤いコードが覗いていた、時々身体に感じないくらいの風が吹いているのか、こちらを威嚇するかのように静かに左右に揺れた、何故だ、と俺はそのコードに話しかけた、もしもそいつが返事をしたら逃げ帰ることが出来るかもしれないと思った、でもそいつは揺れるのをやめてほんの少し亀裂の中へ身を隠しただけだった、今は話したくない気分だったのかもしれない、いつしか俺は記憶の中を彷徨っていた、望まぬ集団の中で、浮遊霊のようにゆらゆらと揺れていた時代の記憶―そこに自分の居場所がないことは初めからわかっていた、けれど俺はそこに居なければならなかったし、俺も別に拒むほどの理由もなかった、というか、理由そのものが俺にはなかったのだ…間違って感情を持ってしまったレンズのように俺は周囲を見つめながら生きた、交わることのない人間たちがあらゆる感情を忙しく行き来するのは見ていて楽しかった、彼らがこだわっていることは俺には下らないことのように思えた、前髪の跳ね具合、制服の着崩し方、ニキビ、スカートの皺、リボン、恋の真似事、反抗ごっこ、青春―そこに真実などひとつも無いような気がした、おそらくは無かったのだ、本当に…校舎は二つの建物に別れていて、漢字の二のように並んで立っていた、俺はいつもその渡り廊下に立っていて、ぼんやりとあらぬところを見ていた、ある日、俺が校舎の端にあるツバメの巣を見ているのだと勘違いしたひとりの教師が一通りツバメの生態を説明してくれた、休憩時間はそれで潰れてしまったが俺はそれから数ヶ月はツバメについてとても詳しかった、授業を離れた教師の話は不思議なほど面白かった、でも冬が来る頃にはツバメのことは忘れた、その教師はそれからもなんどか渡り廊下を歩いたが、俺がツバメの巣を見ているわけではないことに気付いたのか二度と話しかけてはこなかった―誰とも口をきかず渡り廊下で呆けている俺を級友たちは変人と呼んでいた、なぜそんなことが必要なのだろうな、と俺は他人事で聞き流していた、思うに彼らは、誰かと同じように生きている自分が誇らしいのだ…でも、何故だ?それはとても馬鹿なことに思えた、周囲の者が黒を白だと言えば、全員がそうするのだろうか、そんなことをしているのと同じことのように思えた、俺はずっとそうして変人のままで居た、中学はそんな風だったが、高校になると集団性はますます奇妙なものになり、二年が終わった時に落第したのを期に退学した、それから両親も俺に何かを期待することはしなくなった―思えばあれからずっと、同じ景色を見ながら生きているような気がする、画面越しに見る人間みたいな、体温を感じさせないやつら、では俺はなんだ?鏡に映った自分自身は血の通ったものに見えるだろうか?何度かカッターで身体のあちこちの皮膚を薄く切って、自分が生きている人間であることを確かめた、馬鹿馬鹿しくなって数ヶ月で止めた、傷口を隠すのも面倒臭かったし…血が流れたからなんなのだ?血が流れるから生きているのなら大抵のものが生きている、俺が疑問に感じているのはそういうことではない―回想は断ち切られた、配電盤が蓋の裏でなにかを始めたのだ―それはカタカタと震えていた、こんな光景を見たことがある…卵からなにかが生まれてくるときの振動だ、小さな音は次第に大きくなり、蓋の内側でなにかが殴りつけているかのような音が延々と続いた、そして―蓋は真っ二つに割れ、鳥の骨格に金属片を張り付けたような奇妙なものが生まれ、べっ甲のボタンのような目玉で俺を一瞥するとガチャガチャという羽音を立てながら何処かへと飛び去っていった、俺は呆気にとられ、それから笑った、霧はどこかへ行ってしまい、湿気を含んだ熱があっという間にあたりを取り囲んだ、なにひとつ明らかにはならなかった、ただ明らかにおかしなことに足を突っ込んだ、それだけが確かなことだった、世界の歪みだったのだろうか、それと俺自身の歪みだったのか…配電盤はあいつが出て行った状態のままそこに転がっていた、でもひとつだけ違うことがあった、あちこちが血で濡れていた、不意に右の拳に痛みを感じた、血はまだぼたぼたと流れ落ちていて、金属片があちこちに刺さっていた、ああ、と俺は声を上げた、それから配電盤を蹴っ飛ばした。



自由詩 長い漏電 Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-09-13 21:01:44
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