概念とはグラデーション的な実在ではないのか?
朧月夜
このごろ考えていることに、「概念とはグラデーション的な実在ではないのか」というテーマがあります。世の中を科学によって見る物の見方は、遠く過去にはギリシア文明の時代、いいえ、それよりもずっと遠い過去から人間は引き続いて考えてきました。例えば、世界はアトム(原子)によって出来ている、という考え方は古来からありましたし、東洋の伝統的な哲学では有と無が一体である、といった考え方が継続して行われてきました。
現代科学にあっても、例えば物理学の分野では、「真空は真に空っぽである訳ではない」という考え方があります。つまり、真空というのはこれから生まれ出る原子(基本粒子であるクォークやそこから生まれる光子など)で埋まっていて、空っぽであるはずの空間から物質やエネルギーを作り出す、という事実があります。これは、東洋思想における伝統的な考え方にも通じるものでしょう。そこでは、やはり有と無が一体となっているわけです。
こうした科学的な事実を、わたしたちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。例えばの話になりますが、物理学における真空というものを一種の「混沌」であるとする捉え方も出来ると思います。
わたしたちの宇宙は必然的に無から生じなければいけないわけですが、その無から有が生じる過程というのはどのように行われたものなのでしょう。物理学的な一つの解釈としては、無からのビッグバンによってこの宇宙が誕生した、というものがあります。もちろん、世界五分前仮説のように、宇宙はある日突然に過去(の情報)も含めて生じた、とする考え方もあります。しかし、この考え方はやはり唐突なものでしょう。世界が無から生まれたと考えても、何ら問題はないからです。
例えば、現在の数学の世界では0除算というものが禁じられています。0除算を含めると、結果が無限大となってしまい、どんな等式でも成り立ってしまうからです。例として、1を0で割れば無限大となり、2を0で割っても無限大となります。これを数式で表せば1/0=∞、2/0=∞となり、両者を比較して1=2となってしまうのです。
しかし、もしこうした計算が許されているとすればどうでしょう。
実際、数学の世界ではすでに数の定義というものが変わっています。これは19~20世紀の哲学者であるカントールやゲーデルらの考え方を推し進めたもので、0というのは空集合、すなわち何もない状態のことを指している。「無もない無」と書けば分かりやすいでしょうか。そして、1というのは空集合、すなわち0が1個ある状態と対応しています。そして、「空集合」と「空集合を1つ含む集合」というのを集めたものが、2と対応しています。以下、このような定義が無限に続いていくのですが、「数」というもの自体が20世紀に入ってからは変化してしまっているのです。
もし、0除算が許されるのであれば、1割0は∞で、∞=1/0ということになります。また、1/0=∞、2/0=∞という計算を無限に続けていけば、いつかは1=2=3=...=∞という結果が得られます。ということは、0=∞/∞=1でもあるわけです。とすると、0に関してもやはり先の等式に含まれることになり、0=1=2=3=...=∞となるのです。
もちろん、これは0除算が許された時に得られる結果なのですが、数学の世界ではそうした計算が許されていない、という訳ではありません。このように、0が全ての数や無限大と等しくなる計算、ひいては全ての数がその他の数や0や無限大と等しくなるというやり方があまり役に立たないから、わたしたちはそうした計算方法を使用していない、ということに過ぎません。
0除算を許可する方法としては、1/0=∞で得られる無限大と、2/0=∞で得られる無限大とが異なるものである、という定義を導入しさえすれば、そこに何ら数学的な問題点は生じないと言えます。現代の数学では、無限大には異なる階層の無限大がある、ということは周知のこととなっています。カントールの考案した連続体仮説、というものもその一例です。また、全ての無限大の上に立つ無限大として、「到達不能基数」というものも定義されています。そうした、「限りなく大きな無限大」が存在する数学的な世界としては、「グロタンディークの宇宙」というものが考案されています。
すなわち、数学の世界を「限りなく大きな方向」に辿って行ったときに現れるものが「グロタンディークの宇宙」や「到達不能基数」です。反対に、数学の世界を「限りなく小さな方向」に辿って行ったときに現れるものが0だとすれば、どうなるでしょうか。その「限りなく小さな世界」に到達するためにも、「限りなく大きな世界」の数分のステップが必要になります。「限りなく小さな世界」に存在する「0」は「限りなく大きな世界」に存在する何らかの数と密接な関係を持っているのです。
混沌の真の意味というのは、そうしたものなのではないでしょうか。このとき、数0の中には限りない豊穣が含まれていると見なすことが出来ます。
このように、「混沌」と「虚無」の間には密接な関係があるのですが、もし真の混沌というものが「秩序が存在しない状態」すなわち「乱雑さ」として定義されるのであれば、これは数学の世界ではランダムネスという名前で呼ばれるものの集合と同じものになると思われます。数学的な秩序が与えられた時に、有限のやり方では導き出すことが出来ないものがランダムネスです。
数学というものをどう定義するかによっても変わってくるのですが、わたしたちの住んでいる物質的実在の世界、すなわち実数をベースにした世界で真のランダムネスの集合とされるものは、マルティン=レーフ・ランダムネスと呼ばれます。一方、これと対になる秩序について言えば、これは「チューリング計算可能性」として定義されるものと等しくなるでしょう。
例えば、コインを投げた時に、表が出た時には0、裏が出た時には1、というやり方で数字を並べていくと、これは二進数における「ランダムな数」ということになります。同じように、0~9までの数をランダムに並べていけば、十進数における「ランダムな数」を作ることが出来ます。また、ランダムな数をランダムに取り出して並べていくことで、「ランダムな数を要素とするランダムな集合」というものをも作れるでしょう。ですから、「限りなく大きな世界」における乱雑さというものは、「あらゆる要素があらゆる結びつき方で結び付いている状態」だと言えると思います。
ここで本題に入るのですが、「概念」の話に戻ります。「概念」というものをどう定義するかは人によって違ってくるのですが、わたしは「概念」というものを「フォーマット」であるという見方を提唱したいと思います。
例えば、「お金」という概念であれば、誰もが「お金」として思い浮かべる、その共有された意識のことを表しています。「数学」しかり、「文字」しかり、「文章」しかりです。このように、誰かが利用し、また別の誰かにも抽象的な実在として伝えることが出来るものが「概念」です。ですから、これが「フォーマット」と同じもの、同じ仕組みを指しているのだとする考え方は、比較的受け入れやすいのではないでしょうか。
もちろん、「概念」というものについて考えるときには、「概念」の「概念」ということまで考えなくてはいけません。しかし、「概念=フォーマット」という視点に立ったとき、「フォーマット」の「フォーマット」を考えるということは、「フォーマット」という現象の「フォーマットっぽさ」だけを測れば良いことになります。「ニワトリが先か卵が先か」という議論に陥る危険がないわけではないのですが、「フォーマット」が「フォーマットとして再利用可能なもの」を表している時、「フォーマット」という「フォーマット(概念)」自体はそれだけで自明に「フォーマットらしい」と言うことが出来ます。
ここで話題がずれるのですが、「グロタンディークの宇宙」における「乱雑さ」というのは、「グロタンディークの宇宙」そのものの大きさとほぼ等しいと言えるでしょう。「グロタンディークの宇宙」における計算方法というのは、「あらゆる計算の仕方が許されている計算」だと言えるのですが、そうした計算方法を許容する世界というものも、その要素は「限りない混沌」でしかあり得ないからです。すなわち、「限りなく大きな世界」におけるユニットそれ自体が「あらゆる要素があらゆる結びつき方で結び付いている状態」であるということになります。
こうした世界では、どのような「部分」であっても「より大きな部分」の相似形になっています。そして、その世界全体が一つのフォーマットになっていると考えて良いでしょう。その世界の中に、「全体」の相似形である「部分」すなわち、再利用された「全体」が無限個存在しているからです(「再利用」という言葉には語弊があるかもしれませんが、全体が作られると同時に、それに似せて部分が作られた、というアプローチを取れば、それは「再利用」という言葉を使用しても違和感がないのではないかと思います)。
もう一歩考えを進めて、「フォーマット」、すなわち「概念」というものが「再利用可能度」のことを表しているのだとすれば、フォーマットの中には「フォーマットらしいフォーマット」と「フォーマットらしくないフォーマット」、「概念」の中には「概念らしい概念」と、「概念らしくない概念」があると言うことも言えます。
例えば、マンデルブロ集合というものが何らかのフォーマットになり得るとして(実際、タコの腕はマンデルブロ集合の細部を元にして作られていると考えられます)。マンデルブロ集合はそのままでも利用することが出来ますが、もしマンデルブロ集合をグラフ化した際にそこに1ピクセル余分な「点」を加えたような集合は、マンデルブロ集合よりも「フォーマットとしての実用度」が低下することになります。その集合はマンデルブロ集合というフォーマットとして使用する前に修正を加える必要があり、「フォーマットらしさ」はマンデルブロ集合よりもいくぶん低下するからです。
もう少し文系的な物の見方をすると、例えば「挨拶」というものの概念について考えることが出来ます。「挨拶の言葉」というテーマを与えられた時、ほとんどの人は「こんにちは」や「ハロー」といった言葉を思い浮かべるでしょう。聾唖の人であれば、手話による挨拶をまず最初にイメージするかもしれません。これに対して、「日本人の挨拶」や「職場内での挨拶」といった場合には、フォーマットとしてのそれらの概念はよりあいまいなものになります。日本人であれば、「こんにちは」や「おはようございます」などの挨拶はすぐに頭に浮かびますが、「ハロー」や「よう」といった言葉は、特定の関係を持った人たちの間でしか使われることはありません。「職場内での挨拶」ならさらにあいまいで、「おはようございます」が通例である職場もあれば、時間帯によって挨拶を使い分ける職場もあるかもしれません。
このように、「概念」が示すものというのは、元々あいまいなものです。「熱さ」や「厚さ」といった概念について考える場合には、「何に対する、何の」熱さなのか、厚さなのか、といったことをまず考慮しなければなりません。その「概念」を使用するに当たって、補助的な「概念」による補完をしなくてはいけないわけです。この点、例えば「円」や「直線」といった「概念」に比べると、「概念らしさ」は低下します。
もちろん、文化が違えば概念の取り扱い方にも変化が表れてきます。「円」や「直線」といった概念を一切使わないという文化も、ことに未開部族の間であれば未だに存在するかもしれません。今後文明が退化した場合にも、そうした表現や文化は表れてくる可能性があると言って良いでしょう。
単純そうに見えるのに、実は複雑であるような概念も存在します。例えば、「存在」あるいは「存在する」といった概念についてはどうでしょうか。何をもって物事が「在る」という状態を示すのか、これはとてもあいまいだと言えます。過去に在って現在にはない事物や現象は、果たして「存在する」という概念に結び付いているものでしょうか。あるいは、イメージの中だけに存在する事物や現象は、どの程度「存在する」という概念に結び付いているでしょうか。そうした事を考える時、「存在」というのは果たして「何に対して存在すること」を意味しているのか、そして「存在する」ということを本質的に定義するには、どういったことから考えを進めていけば良いのか、という新しい問題が生じてくるのです。
先のマンデルブロ集合の例に戻りますが、例え不確かな概念(マンデルブロ集合に1ピクセル加えたような集合)であっても、それを利用する側が一工夫を凝らせば、それは二次的に生み出された概念として利用することが出来ます。むしろ、自然界にはマンデルブロ集合のような「完全さ」をもった集合よりは、乱数的な要素によってかきみだされた「不完全な」集合のほうが多いです。「完全な」集合とはむしろ人為的(あるいは神意的)である場合が多く、自然な集合としては稀にしか存在し得ないのです。
例えば、太陽系一つとってみても、完全な円や楕円を描いている星々よりは、その星々の内部にあって不完全な乱雑さに支配されている運動のほうが圧倒的に多いでしょう。
こうした世界のあり方を解決していくためには、わたしたちはどのような物の見方、考え方をしていけば良いのでしょうか。
その一つの方法としては、世界を出来るだけ数学的に正確に記述する方法をわたしたちが見つける、というものがあるでしょう。また、他のやり方として、世界をより人間らしく、文学的に見ていくという方法もあると思います。古代の宗教が陰陽や言葉を重視したように、「1/0=2/0=3/0=...=∞」といった考え方を容認していく、ということが一つの解決に向けた方法なのかもしれないのです。
文学の世界も哲学の世界も数学の世界も、日進月歩ですから、今日通用した考え方が明日も通用するとは限りません。一つの「概念」のみならず、「概念という概念」それ自体がグラデーション的なものである、と考える時、わたしたちが何を見、何を感じ、何を手に取り、どう扱って行くのか、といった一挙手一投足が世界のあり方を導いていく、そういった世界もやがてやって来るのかもしれません。