さらば クシャーンの地よ
松岡宮

「そういえば昔 クシャーン王朝って国があって こちら側の名前であるクシャーンの地って名前は そこからとったと聞いた」
博識な「日雇い」さんが、そんなことを言った
「知らない 歴史に弱いから」
わたしは答えて またストレッチに戻った
「今日は泳ぎの特訓」
「今日は泳ぎの特訓」
泳ぐのは苦手なので身震いする
靴下を脱ぐと足の裏に砂や小枝がくっついてきた
「逞しくなるぞ このクシャーンの地では みんな」
鬼軍曹と呼ばれる体育講師がやけに薄着で河原に立ったまま叫ぶ
なぜ運動が苦手なわたしがこちら側に来てしまったのかよくわからないが
率直にいえばここでの暮らしはそんなに悪くない
はい。



運動が苦手なわたしはすぐにギブアップして草原に横たわる
「ハァ ハァ ちょっと待って・・・」
雲の模様がつぎつぎに変わる空は季節の移り変わりをわたしに教えて
「しあわせ だ/です」
詩の時間に教わった言葉を声に出してみた
「しあわせ」は「ひやあせ」に似ていると思ったが
「しあわせ」ってこんなふうに平らな気持ちのことをさす言葉なのかな
気持ちの言葉のことは よくわからない
「クシャーン」
この地にはよく判らない「神」がいて
朝と夕暮れにはそれに手を合わせるように指導された
しっかり守っています。
はい。



「世の中には2つの世界があります。身体を動かすことが好きな子どもはこのクシャーンの地に育つことになります。職業人として質の高い生活を過ごせますように体を使った訓練を国の責任でいたします」
だそうで
クシャーンの地は体育を重視する 
体を使うのなんて苦手なのに
水泳に球技に
陸上競技にダンスまで
朝からいろんなメニューが並ぶ
今日も足を使って疲れたな
相変わらず水は怖い
だけど少しずつ気持ちよくなってきた



澄んだ色の羽をつけたバッタが足首の骨に乗ってきた
雑草と同じ色をしているけれどよく見るともう少し青みがあった
昆虫は植物とは違うのだと知った
大河に波は立たず
鳥が飛来しては群れて過ごし
虹の向こうの対岸はよく見えない
対岸に生まれたらどんな生活を過ごしていたのかな
こんなに水泳ばかりやらされないですむのかな
それは はるかな川の向こうの世界の話で 
クシャーンの地に来てしまったわたしにはよくわからない

「雨が降るぞ」
空行く雲が 黒ずんできた
わかる
あと数時間で「雨が降るぞ」 
そら 
降りろ
バッタも雨に 気を付けて



こちら側とあちら側を分断する大きな川の流れ
雨のあとにはどうどうと太くなる流れ
季節の彩りを教えてくれるその川は
時々魚がぴょいと躍るほかはやけに穏やかな川で 
向こう岸が見えないのでまるで海のよう
あまりに大きいので渡り終えるのに船で何日かかるかわからない
両岸を渡るのは虹を渡れる人だけだと鬼軍曹が言っていた
「クシャーン」とつぶやいて祈りを捧げる
「神」に祈れば近づける
なんとか生きて行ける
はい。



水泳訓練は寒くて大変だったけれど
よく訓練された淡水魚がいっしょに泳いでくれる
「なんでこんなに泳ぐ練習をしなくてはいけないんですか」
「お前たちが就労するためさ」
めざす目標なのですね 淡水魚さん 「働く」ってのは 考えていてはできないことなんだね
おかげで筋肉もついてエラまで出来てきた
砂利道を裸足で駆け抜けるとき雨雲が向こうから駆けてきてすぐに去っていった
普段着のTシャツがびっしょり濡れたけど暑かったからちょうどよかった
何しろ魚座だから 濡れるくらいがちょうどいい
(「日雇い」さんも魚座だった)
それから夕焼けが来てくれて
平らな土手に立てばトンボが2匹絡まって飛ぶのを見た
「しあわせ だ/です」
ってこんな気持ちのことかな
気持ちの言葉のことは よくわからない

※ 

さらば クシャーンの地よ
空ゆく雲が東へ抜け 空が広く晴れ上がってきた
「日雇い」さんわたしも魚座だったから
だからきっと大丈夫 
むこうの岸まで泳ぎに行こう
透き通る水に 身を浸してみれば もう何か違う生き物になったようだ
さらば クシャーンの地よ
育った家の倉庫に隠されていた大きな壺の中味も
いつか着るはずだった一張羅の上下の白い服も
友達になった小さな蟹の親子も
ひとまずはさようなら
「日雇い」さんを無理やり引っ張り込んで一緒にあちら側の世界を見てこようと思います
鬼軍曹の指導を思い出す
力を入れすぎてはいけないよ
沈まない程度に足を揺らして
疲労しない程度に肩を動かして
鳥たちの群れをなぞるように
向こう側の岸へ向かって泳ぐ
空は快晴
水の抵抗もあまりなく
スイスイと前に進んでゆく
「しあわせ だ/です」ってこんなスムーズな体の動きのことだった
(のかな)
(やっぱり よくわからない)
どうか夕暮れまでにたどり着けますように
「日雇い」さんとわたしは対岸に向かって泳ぎ出したのです


自由詩 さらば クシャーンの地よ Copyright 松岡宮 2021-03-29 00:06:15
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