忘却の河
大町綾音

 彼女が問うそのやわらかな言葉にわたしはと惑う。

 その刹那、その物腰、その唇の動き。私の目からは隠されている、それらの上に──彼女は、とても重い。母よ、すべての者の母よ、すべてを失くしたあなたの上には、あなたが捨て去ったものと、あなたを顧みないものとの堆積が厚く、渦を巻くかのように垂れこめている。それを、彼女は見なくても良いのだ。見なくても良かったはずなのだが、やがて見上げようとするだろう。なぜなら、それは空と一つながりの層なのだから。天から人へと降りる階段、その一段々々を登って、人は再びどこへ行こうというのだろう。意味も音感をも越えたところから、さながらマリオネットのように彼女は差配される。(神々はけっして戯遊あそんでいるのではない。しかし──、)ついと流れる涙が頬を伝うときに、酷薄な神らは、むしろそれを見まいと努めるだろう。神々の時と人の時とを触れ合わせて。だから……彼女は無言のままであぎとを上げ、礼賛しなくてはならない……。彼女の求めるものも、彼女の求めないものも、畢竟そこにはないのだが。

 折り重なる屍の意味よ、それらがそっと彼女の頤を引き上げ、空へといざなう。「誘い」は、深紅の炎のように彼女の心を焼いて、裸身のままの心に降りかかる。ああ、その哀れを、おまえたちは見ないか。

 それらを河と言うなら、それらは揺らめく炎の大河なのだ。身を、心を、焼き尽くす。……無邪気にも微笑む彼女に、慈愛は落ちただろうか──わたしは知らない。ただ、無常の鐘が鳴るのみだ。


自由詩 忘却の河 Copyright 大町綾音 2021-03-20 22:23:28
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