写真家の春
阪井マチ

 個展を開いてから死にたいと思った別離は、安価で借りられるギャラリーを探して狭い街を訪れていた。気怠さが頭の表面に集まって髪の毛の先端から逃げていく、というイメージを強く抱いていた。そのイメージが自分を解放してくれると信じていたが、この幻想に対して支えとなる物語を与えることに失敗し続けており焦りを覚えていた。せめて挿絵の代わりになればと思い、住居の周りを歩く人の姿を写真に残すことを続けていた。その写真で壁と天井が埋め尽くされた頃、もう解放されることがないと分かったので髪の毛を切るのをやめ、鈍色の細い道で言われるがままの生活のなかで消耗していった。
 ――別に構わないよ。予算もあんたの出せるだけでいい。
 ギャラリーの主人はあっけなく別離の申し出を受け入れた。狭い街の吹き溜まりに高い店舗を持つそのギャラリーはとても営業しているようには見えなかったが、壁の至るところに肌が露出したかのようなフィルムが貼り付けてありそれが現在の展示物であるようだった。
 構わない。ただし、と主人は言葉を続けた。個展を開くには持ってきて欲しいものが三つあるんだ。
 まずはキリンの脚の模型。二十年前に配信された映画のなかで主人公が持つ日傘の柄として使われていた実物。二つ目は割れた硝子の時計。蜘蛛の巣状にひびが入っていることが望ましい。最後はあんたの親の写真。顔が分からないように加工したものを持ってくるんだ。
 それだけでいい。急いでいるんだ。それだけでいいから。
 別離はまず脚の模型を得るためにその映画を観ようとしたが、ソフト化はもちろん現在では配信も行われておらず違法にアップロードされた映像すら見つからなかった。視聴した人による感想テキストがわずかに残っている以外には不自然に思えるほど痕跡が残っておらず途方に暮れたが、そのテキストの投稿者の写真があってよく見てみると別離が以前勤めていた軽食店を頻繁に訪れていた客に似ていた。その客は自分は映画を全部観ているのだという主張を繰り返すため従業員にも他の常連客にも怖れられていたが、今この状況の別離にとっては光明に他ならなかった。
 その客の住所は知らなかった。だからかつての職場の周りを歩き回ることにして偶然出くわすことに希望を掛けた。店の中で待ち受けていれば会える可能性は高まると思ったが、別離はそこで働いていた頃にひとりの同僚から殺害予告を受けていてその人がまだ店にいたら今度こそ殺されるだろうと確信していた。別離は個展を開いてから死にたいと思っていたので、危険は避けるに越したことがないと判断した。さいわいにも最近は暖かい日が多くなっており外を歩いていてもあまり支障はなかった。まずは一週間、毎日うろついてあの客を探してみようと思った。
 捜索を始めてから五日経って客は見つかった。別離が声を掛けて振り向いたその客は当時よりもずっと遠くを見ているような目をしていた。映画のタイトルと事情を伝えたところ、あの映画を現在観ることは確かに難しい。しかし少量であるもののパンフレットが出回っておりちょうどさっき二駅先の町の古書店で見掛けたところだ、と懐かしそうな表情で教えてくれた。
 別離は早速その古書店を訪れることにした。その古書店のある町では実験的に導入された情報通信設備による景観が観光資源となっていた。それは町中に張り巡らされたチューブ状の伝送路であり、高密度の電子記録媒体がチューブ内を高速で移動することによって高速大容量の通信を可能にするという代物であった。駅から古書店までおよそ二十分の道のりを別離は歩きはじめた。そのときちょうど伝送チューブの傷みが限界を迎え裂け目ができ、裂け目から大量のメモリーが飛び出して道路に降り注いだ。別離はその雨をおびただしく浴びたために全身が何とも分からなくなるほど掻き崩され一瞬で命を失った。それがかつて人間であったことが信じがたいほど別離が広範囲に拡散した。
 写真家の春は血にまみれた春。


散文(批評随筆小説等) 写真家の春 Copyright 阪井マチ 2020-10-25 14:02:21縦
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