散文三つばかり
道草次郎

「いくつかメモ」

誤解を恐れず端的に言うとバランスが欲しい。換言すれば、あれもこれも欲しい。低い水位で流れるのでいい。こういうことを言うのはバランスを欠く要素だからと、すぐに排除することに飛びつかず、こういうことを言うことも低い流れの一部としたい。詩を書くことに誠実であるとはこういうことかと、ふと思ったりする。

つまりなるべく言葉の練度をきわめ、なまくらの批判を次々と繰り出さないこと。ここまでは、詩人の取りうるよくある態度。贅言をなるべくしない。抑制の面持ち、これもよいだろう。

しかし、自分は誘惑を断ち切れない。もっとも美しいものは、俗なるものの収斂のうちに存するという信仰に永らく囲われている。審美家を殊にさげすむ者が、審美家に一番近接だという逆説だ。自分の立ち位置を知るのは自分一人では無理だとやがて思うのが自然の道理で、自己批判の慰めはいったん置いて野に出るのは必定。

自己の限界を知り、こころを野に飛散させてみる。野に出てみれば、自分のかんがえがいかに偏っていたかが知られ、呆然と立ち尽くすのみとなりもう一言も発することは出来ないと思い定めたりもする。

けれども何事も経験とおもい、というか面食らったからどうにかなるというのでもないので、また少しずつ歩き始める。

小説を書くことをする人は、移ろう自分の影を物語のベールに包む。しかし物語の視点はなにか。それはたしかに大きな問題のように思われる。しかしながら、問題が大きいからといって物事が進まないという試しがないように、物事はすすみ小説は書かれ発行される。その時々の自分を視点にするかどうか。ほんものの小説、誤解を恐れずいえばその視点は何にあるか。その視点の無さにあるか。神にあるか。実存にあるか。それはわからない。それはいかようにもあることができるから。

と、ふとチャンネルを変えるように音楽を聴くこと。なんの音楽かは重要ではなくて、とにかくなんらかの音楽をきくこと。そういう事の中にも倫理はあるのだから、どうも人間は倫理を愛することもできてしまう。

世界の条件は終われないこと。終わるのは終わったら終わるのだから終われない。位相の変移か。存在の裏返しか。ほんとうに死んだら死ねるのか。疑義者は天才は、意味論と論理学と数学に囚われている。

人間の蓋然性と人間の可能性のあわいに、おそらく詩魂は転がっている。



「特殊相対性理論」

何かを好きになるということは、現実を愛しているということ。自分が産まれてから今までのことを考えてみて、何かを好きになったことがなければ、その人は人である可能性は低いけれど、もし万一そういう人がいたならば、詩人はそういう人の為にも書かなければならないはずだ。ニュートンではあんまりかなしいからアインシュタイがしたようなことを、した詩人の何人かを知っているが、その詩人らはたしかに時空の調律師を飼っていたか、それに飼われていたかのようにみえた。



「詩の人質」

詩を人質にとってその頭に銃を突きつけるぐらいなら、女を人質にとってその頭に銃を突きつける映画を観た方がまだマシなのに、いっこう映画も小説も漫画もじっと浴びることができない。今から数えておよそ120日前には、3時間おきにする赤ん坊の世話の合間にNetflixの無料期間中を利用して、『COSMOS〜いくつもの世界』をこっそり観ていた時は、こんなことになろうとは予想だにしなかった。昔から宇宙や生命の話が好きだった。BBCはすごいことをやる。今でもそれは思う。ニール・タイソンも悪くないけれど、やっぱりカール・せーガンはスターだとも思う。120日前に許された、ほんの僅かな自分の時間の使い道はそういうものに費やされていたのだ。

ところが今は先に言った通り詩を人質にとり、目の下にくまをこしらえた銀行強盗さながら、その頭に銃口を押し付けているのだ。これは一種の堕落である前に、どうした状態変化だろうか。人間はみんな自分の来歴というものから現在の自分の状態というものを算定するが、俯瞰的な視点がこのように自身の経験という縦軸にのみ終始する場合、それはまだ浅薄な視点と言わざるを得ない。世の中という横軸をかませないと俯瞰的視点は体をなさないのだ。社会へ目を向けること。これはすなわち自身の歴史に奥行を与えることだろう。或いはそれは自身という牢獄を解き放つ鍵であるのかも知れない。

今考えていることはそれまでだ。やることをやらねばならない。考えることはもうやめる。中断だ。あまりにも自分は囚われすぎている、おそらく書くことに。焦りすぎている、何もかもに。筆をおく。




散文(批評随筆小説等) 散文三つばかり Copyright 道草次郎 2020-10-25 08:53:43縦
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