9年前の嫉妬
道草次郎

 
古いパソコンのハードディスクを整理していたらおよそ9年前のこんな文章が出て来た。当時ぼくはホームヘルパー2級の資格を取るため、地元にある「やすらぎの園」という特別養護老人ホームで実習に行っていた。今でもその時の写真が残っているが、痩せているなあと思う半面、どうも顔色が悪くどこかしら生気を感じられない所がある。たまたま見つけたのも何かの偶然かと思い、せっかくだから投稿してみることにした。たまにはそういう事もしてみたくなるのだ。
 その時ぼくはまだ童貞であった。だが、それ以上に、社会というものに対し底知れぬ恐れを抱いていた。文章は敢えていじらずに、そのままの状態のものを引こうと思う。



 「僕はいま、あまり親しくない人たちの中にあって、黙ってその人たちのおしゃべりに耳を澄ましている。僕は耳にする。その人たちのうちの一人、Aさん(中年のおばさん)の話し声を「え~と、上の子供に子供が一人、女の子。女の子も女の子で可愛いよね」僕は無関心を装う。別のもう一人、Bさんの話し声、「○○さん、今日遅番?いや、俺は明後日。マジ眠いよね」いぜん無関心を装う自分。ところで、このとき僕の中で嫉妬心がグツグツと煮え立っていたと言ったら、それは馬鹿な話だろうか。そう、たぶんそれは馬鹿な話なのだろう。しかし、嫉妬とは、いつも不意打ちのもの。僕の心の中でAさんは、人生の成功者だ。なぜなら彼女は結婚をして子供までいて、その子供にも子供がいて、だからつまり孫までいるわけで、人生のある種の醍醐味を知っている、らしいから(子孫を残すか残さないかを個人のスタンスとして割り切れる勇気は僕にはない)。もしくはそれを体現する者として僕の前に存在している。しかも、さっき僕に対して随分親切に仕事を教えてくれた。僕はその教えに充分に応えられなかったけれど、Aさん、あなたはそうだったのか、あなたは孫持ちの良いおばあちゃんだ。だから、僕の嫉妬心は、Aさんのまえでは笑っちゃうほどひねくれていて、不細工なほどみっともない。それが分かっていても、妬みはどうしても胸に湧き出し来て、しばらく止みそうにない。こういった一連の思考の不毛と傲慢に対し、一体今まで何度悔悟の念を強めてきたかわからない・・・。にもかかわらず、今日もまた同じことの繰り返し。まったく自分には嫌気が差す(嫌気も数十秒ほどで治まればいいが、運わるければ長時間続くのだ。
 
 Bさん、どうやら僕よりちょっと若いな(僕は27だ。年齢を単なる数字と割り切れる勇気、これも僕にはない)。ここで働いて何年かな?尋ねてみる勇気もないけれど、それがやけに気になる。イケメンだ。背も高い(ちなみに僕は164.5センチ、もっとも公表するときは、いつも無理やりの四捨五入してしまう)。遅番?それはどういったものだい?キツイのかな・・・。僕にとって遅番という言葉の響きほど恐ろしいものはない。それは、残酷に突き刺さる毒棘のようだ。ああ、Bさん、君の横顔に夕陽の光が射して君はまるで輝く美男子。前途洋々の若人だ。それに比べて僕はじつにしみったれたイケてない、変な奴。所属のない人(ぼくは学校を出てよりこの方、何某かの機関に所属した事が無い)、つまりただの人。それでも、いささかの真面目さは得手といえようか?まあそれもいっときのものさ。一枚皮を剥げばたかが知れている人間だ。たかが知れてる人間、なんていう言い方はなんだかずいぶん不毛で虚しいけれど。僕は女性と付き合ったことがない。この事実が僕の、男としての全存在に大きく圧し掛かっているのは、もう当たり前すぎて、ほとんど忘れかけているくらい。生殖を、観念でのみ捉えている自分を前にして、本能のままに生きようと願うもう一人の自分は絶望の淵に立たされている。これはちょっと大袈裟だな。君はモテるんだろうな。これは、思い込み?あるいはそうだろう。君だってもしかしたら大変な悩みを抱えているのかもしれないのに。僕は、僕のこんなにもつまらない嫉妬で君を誤解してしまっているかも知れないことを恥じるよ・・・ああこう考えると、嫉妬の火もいくらか水をさされ、鎮火の気味か・・・。

 以上のとりとめのない迷妄ともつかない呟きこそ、去る二月二十三日PM4:00、場所は○○施設における僕の心中にほんの数十秒間兆した愚かなる嫉妬心の荒削りな引用である。読むに耐えないのはさておき、思うのは、まあなんと人は、ほんの少しの時間でも随分いろんな事を勘ぐり、憶測し、秤にかけ、そして妬むものだろうということだ。
 あくまでも個人の印象そのままを記したまでなので、感じ方はもちろん人それぞれ、こんな馬鹿な奴もいるのかくらいに取ってもらって結構。むしろそう思ってもらったほうがずっといい。その方がこちらの気も休まる。とはいえ、この呟きにある種の普遍性が存すると思うのは僕の傲慢だろうか。おそろく傲慢なのだろう。だが、僕はその傲慢を皆さんにこうして吐き出してしまった。もう取り返しがつかない。だから、僕の嫉妬心というもののみっともなさ、その単純さ、その軽佻浮薄さ、その非論理性、そのわがままさ、その手前勝手さを分かってもらわなくてもいいが、ぼんやりこんな事もあるのかくらいに知って貰いたいのだ。そうすれば、(これも傲慢ないいかたかな?)きっと皆さんの中にも似たような経験の記憶が蘇るはずだから。」


 
どうもこの文章は元々公の場に発表するつもりで書いたようなのだが、その願いが叶わなくてなくて本当に良かったと思う。どうにも面映ゆいというか、ぼくはあの時たしかに若い普通の男が話しているのを見ると、とにかくヤキモキしたものだった。あの男は童貞ではないんだろうなと思っていた。あの男は女性と話ができて、食事ができて、夜にはその女と一緒に寝るんだと思うと絶望的な気分になった。男にはこういうどうしようもない部分がある。しかしながら、男のこうした性的欲求が容易に満たされてしまったら、おそらく自身の中に葛藤が生まれることがないので、物事を考える時の徹底さが損なわれるのかも知れない。というのは、自分の初体験が遅かったことへの後からとってつけた言い訳かもしれないが。
 9年前の自分の考えていたことを読み返して思うのは、何はさておき、自分は基本的に変わっていないなということである。童貞であっても童貞でなくても、考え方の基本は変わっていない。そのことがよく分かった。性のことを書くつもりは無かったのだが、なぜかこういう話になってしまった。青い時代ではあった。しかし、それは青く鬱屈とした何かをひたすら醸成した時代でもあったように思える。今の自分も9年前の自分のように、未来へ向けて何かを醸成しているのであれば良いのだが。
 そんなことを改めて考えさせられた1日であった。











散文(批評随筆小説等) 9年前の嫉妬 Copyright 道草次郎 2020-10-11 23:16:54
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