不完全に燃焼する罠
こたきひろし

スナックねね。
その店名から彼は豊臣秀吉の正妻の名前を連想した。それは特別な歴史認識じゃなくて普通だった。
千葉に近くて東京のはずれにあった街。だったが地方出身で山間の土地から上京し就職して一年余りの彼にとってはそこが巨大都市の一隅に何の違いもなかった。
首都東京は人人人。とにかく人が多いと言う印象に飲み込まれてしまう。
自分の存在が砂の一粒にも負けてしまうと言う怖さをしきりに感じてしまう状況に置かれてたえず心細い思いにかられた。
総武線上の駅から十五分位歩くと彼が住み込みで働いていたチッボケな洋食屋があった。独立開店して一年余りの店は普段から二十歳代半ばの経営者と彼の二人だけで切り盛りしていた。
働き出してしばらくは午前十一時から夜の九時までの営業だったがその内に経営者が翌日の午前三時まで伸ばしたから過酷な労働時間になってしまった。
とは言ってもランチタイムが終わり客が退けると一旦店を閉めて夕方六時から再開しその間は体を休めた。
それでも体はきつくて辛かった。
特に深夜時間は睡魔に襲われて客が入らないとカウンター席にすわりまともに眼を開けていられなくなった。そんな時経営者は店舗の後ろにある事務所兼住まいに行ってしまった。
 客が来たら呼びに来てくれ。
と言われたが、随分と理不尽な思いを感じない訳にはいかなかった。
三時の三十分位前に客が入って来たのだろう。そっと肩を叩かれて慌てて我にかえった。
 悪いね。折角休んでいるところ。
長身の男性が黒服に身を包んで立っていた。ねねのマスターだった。物腰がやわらかくいかにも水商売風の
空気を漂わせていた。
 すいません。
彼は素直に謝った。店の一番奥の六人掛けのテーブルには既に女の客が三人すわっていた。
 ちょっと後ろへ行って呼んで来ます。
と彼は言った。四人は常連の客だったので事情は察していた。
 呼ばなくていいよ。時間かかってもいいからKさん作ってよ。
マスターが止めた。
 俺はまだまだ修業中ですよ。お客様に出せるようなものは作れませんけど。
と申し訳ない気持ちで彼は答えた。
 だけど二人だけでやってるんだから、料理仕込まれたでしよ。その成果を試してくれればいいからさ。
とマスターは言ってくれたから、彼はつい乗り気になった。
するとマスターが女の人たちに声をかけた。
 みんな何食べたい?
すると三人はマスターと一緒でいいですと遠慮気味に同調した。
 じゃあハンバーグライスにしよう
とマスターが言った。彼は分かりましたと答えながらオープンキッチンの壁に掛かった時計に眼をやって独断で店の看板の明かりを落した。呼びに行かない限り経営者が出て来る心配はなかった。
他に客が入って来ると仕事に差し支えると危惧したからだった。

ねねに勤めている三人の女性の一人は内の二人はいかにも水商売風でそれなりに年齢がいっていたが、一人は若くて黒髪を長く伸ばし清楚な服装の可愛い人だった。何となく学生的な初々しさを醸し出していた。
彼はずっと気になって仕方ない存在だった。

無事に料理を作り提供するとそれを食した客の四人はテーブルから立ち上がり帰る前にマスターが言った。
 今度うちの店に来たら。
と言って店の場所を教えてくれた。
かなり近い所にあって彼は吃驚した

それから数日した店の休業日に彼はねねの扉を初めて開けた。
運悪く店内には客が沢山いた。
薄暗い酒場には酒の匂いと人の匂いが入り混じっていた。

あいにく黒髪の長い女のこはボックス席にいて若い男の客たちの中ではしゃいでいた。
彼は最初、店員の誰にも気づかれず戸惑っていた。
その内にマスターの眼に止まり声をかけてくれた。マスターはカウンターの中から出て来ると、来てくれたんだと言って歓迎してくれた。
 カウンター席でいい?
と言って彼を席に案内した。席にすわるとマスターと代わって女性がそばに来た。
黒髪の長い女のこは相変わらずボックス席にいた。
おしぼりとお冷を運びなから彼の横にすわった女性はいきなり言った。
 けいこちゃんモテモテだから。若くて可愛いし、こんな所に場違いなこだから余計よね。
図星を刺されて彼は気恥ずかしくなった。
 私みたいなおばさんじゃあなたみたいな若い人には嫌われてしまうね。
言われて彼は即座に否定した。
 そんな事ないですよ。お姉ちゃんみたいで心癒されます。
などと自分を誤魔化しながら聞いた。
 けいこって言うんですか?
彼が聞くと、お姉さんはちょっと嫌な顔をしながらも教えてくれた。
 マスターは姪だって言ってるけどさ、怪しいわよ。だって年頃の姪ごさんと一緒に暮らしてるんだからさ
 普通に考えておかしいでしょ
と聞かされて彼は落胆してしまった。自分はいったい何の為にこの店に来たのかを考えてしまい気持ちが
宙に彷徨う自分を発見した。

その時、彼は十九歳。未成年の冬の夜だった。




散文(批評随筆小説等) 不完全に燃焼する罠 Copyright こたきひろし 2020-10-11 08:56:36縦
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