取り立てて書く事でもないこと
道草次郎

ぼくは昔から人よりいくらか理解力が劣っている所がある。

これは確かなことで、1回言われてもすぐに分からないのは勿論で、3回ぐらい言われても分からないことが結構ある。

例えば仕事においては他の作業者がスイスイこなせる作業を自分はよくできない。時間が掛かるか、速くやろうとすれば高確率で失敗をする。

最初はメモを取っていたけれど、やがて、速くやらなければというプレッシャーに圧倒されてしまい、メモの存在自体を忘れてしまう様になった。

同じ所で失敗することが本当に恥ずかしかったので、そこだけは間違えずにやろうとしたらなんとかそれは出来たけれど、今度は別の箇所が疎かになってしまい元も子もなかった。

そんな事が毎日のように続き、どんどん自分に自信がなくなっていったぼくは、やがて精神的な面での行き詰まりを強く感じるようになった。心療内科の門をたたき、何人もの医者に見解を求めた。簡単なテストみたいな質問に真面目に答えたら、ADHDと診断された。昨今ではよくある話だ。コンサータという薬を処方され飲んでみたが、全く効果がなく、他の薬も何種類か試してみたものの、芳しい効果を得られぬまま今に至っている。

結局たぶんそんな自分の病質のせいで、仕事を転々とし家族すら失い、大変深刻なうつ状態に陥ったのだと思う。

つい先日まで一日中仏壇の前で読経を唱えたり、床にうつ伏せになったまま2時間も3時間も動けなくなったり、一晩中ひどい魘され方をして悶え苦しんだりしていたのだから、きっと何処かしらがおかしいのだろう。そんなさなかに詩を書くことでなんとか生き延びて来たというのが実情だ。

ぼくは本当にADHDなのかはよく分からないが、とにかく、社会で上手くやっていくのが普通よりだいぶ下手であるというのだけは確かなようだ。

幸いにも今、公的な職業訓練施設で専門技能を習得する為の職業訓練に通わせて貰っている。これは、ぼくにとってはここ数ヶ月で一番の進歩だ。

ぼくにとってここ数ヶ月は一日とて死を考えない日はなかった。ぼくは中学生の時からずっと苦しんできたが、ここ数ヶ月はそれまでの人生の中で一番苦しかった。地獄についてこんなにも考えたことはなかった。どうも、天国についても地獄についてもこんなに考えづくめに考える事になるとは予想だにしていなかった。別にぼくはなんの信仰も持っていない。しかし、そういう事を死ぬほど考えた。それがどういう意味かはわかる人には分かるだろう。

今、ぼくは自分のことを考えてみると、じつに大した人間ではないと思うばかりだ。なんでこう大したものでもない者が、あんな風におおげさにジタバタしたり、たくさん詩みたいなものを書いたりしたのか。まったくもって不可解である。人間のすることは変わっているし、莫迦みたいだ。自分がそれの代表格のようなつもりにたまになるけれど、まあ、こういうことも概ねよくある事なのだから、別に取り立てて言うまでもないのが本当なのだろう。

人間はちょっと油断すると何かにつけて自分が一番だと思いたがる。たとえそれがネガティヴなことでも1等でなければ気が済まないのだ。そんな人間の習性はまことに困ったものである。肥大化した自意識というやつは、自意識の収まる器を大きく逸脱して他の大事な部分まで侵食してしまう。

ぼくは自分がダメな人間だなんて思ってはいない。思えないのだ。人間とはそこまで度し難く、また罪深いものなのだ。最終的には自分を愛してやれないような人間は、人間というよりも人間に似た偽者に過ぎないだろう。そういうことをよくよく考えていくと、人間とはじつにどこまでもどこまでも深いものなのだ。簡単なことは一つだってありはしない。また、そう難しいこともあるわけでもない。あるのはただ、深く、底光りをする何かである。その何かを具体的に名指ししてしまったら、瞬時に瓦解してしまう危ういものであることは間違いない。

ぼくは人より理解力やその他の職務遂行能力が劣っているかも知れないが、本当はそんな事は悩む価値もないことだ。そんなこと少し考えれば分かることだ。そんなことに拘泥しているのは、全くの時間の無駄である事など子供でも分かる。人間は自分の分際を認識し、それに適合する生き方をすれば良いだけなのだ。それが容易でないことは百も承知だが、やはりそれぐらいしか方法らしい方法はない気がする。

ぼくにとって、書くことの源はたぶん世界の不当さにある。それは、半分は社会にむいているかもしれないが、もう半分はこの宇宙、つまりは森羅万象を司る何かに向けられている。宇宙が美しいからと言うだけで、その美しさを筆記したいと思う程ぼくは審美家ではないと思う。世界へ叛旗を翻すこと、それがぼくにとっての書く理由かも知れない。

とりとめもなく、また、なんのサービス精神も面白みもなく書き連ねてきたが、改めて、書くということの意味を考えている。考えることに終わりはけっして無いのだ。

そして、あらゆる問いへの答えは自分にはない。何故ならば、問うことこそが答えであり、答えというのはそれ自体が既に問いだからである。







散文(批評随筆小説等) 取り立てて書く事でもないこと Copyright 道草次郎 2020-10-10 01:22:08
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