黄金挽肉炒飯殺人事件
墨晶

          短編

 ♰

「何喰おうかなあ、先輩は何にしますか」
「俺か、俺は、チャーハンだ・・念のために云うが、『俺の名はチャーハン』と云ってるんじゃないぞ」
「・・わかってます・・」

 本日、一軒目の顧客廻りが済んだ二人は、小さな中華食堂で昼食を摂ることにした。

「僕もチャーハンにしようかなあ」
「俺に合わせる必要はない、喰いたいものを頼め」
「いえ、何となく先輩が頼むチャーハンなんだからよっぽど美味いんじゃないかなと」

 眼鏡の奥の全く笑わない三白眼とやや吊り上がった左側の眉が、この先輩と呼ばれた背の低い肥った男の、腹の裡を量り得ぬ倦怠とも達観とも判断がつかない顔を構成している。課内で謎多いと云われるこの先輩の存在が普段から気になっていた、一方の大がらで未だひたすら頑健なだけの若い男は、本日はこの先輩のお供である。 

「俺は別に美食家じゃない。大概の中華屋でチャーハンだけはハズレがない。そう思ってるだけだ。それに、この店は俺も初めてだ」
「ええっ、それじゃ・・なんか不安になってきた。そうか・・無難なものと云えば・・やっぱり僕もチャーハンにしときます」

 不安な要素は他にもあった。二人の客がカウンターに座って未だ誰も注文を取りにあらわれない。そして無論、昼飯時であるにも関わらずこの二人の他、客はいない。更に云えば、飲食店らしからぬ 「八角玄象館」と云うこの店の名がそもそも大いなる虚無とも混沌ともつかぬ不安の源泉であるのは云うまでもない。

「すいませーん、注文おねがいしまーす。すいませーん・・あの 先輩、もしかして準備中ってことはないですか」
「入り口に 『絶賛営業中』って札が下がってただろ」
「札・・ありましたっけ」
「いや、なかった」
「・・先輩、そもそも、ここ食い物屋ですか」
「なにか変か?」
「だって・・壁も天井も床も 黒いバッテンだらけじゃないですか。これって・・」


 ♰♰

「カチ」 と素っ気ない音がした。

─ だめだ! だめだ! だめだ! またオレは [あっち] へ行ってしまった。
[ここ] を愛せないんじゃない、「愛」こそが不適切なんだ!

 男 ─ この八角玄象館の店主は厨房裏の材料庫の隅にしゃがみ込み耳を塞いでいた。あらゆる呪詛の言葉がこの男の脳を、肉を、骨を蝕み犯し続けている。二十四時間、目が覚めていようと眠りの中だろうと、男は声に追跡され監視されているのだ。

─ [エル] もやった。 [草] もやった。 [キノコ] も [サボテン] も全部やった。でもだめだ! あの「声」を振り切る為には、オレにはもうアレしかない! アレだけがオレを救済するんだ。 
オレには「資格」がないとわかった。だから、だから、自力でそこへ行ってやる! 選ばれた人間がいるならば、オレはソイツらから権利をむしり取るまでだ! 畜生! 畜生! 畜生っ! カネだ、カネなのさ! 結局カネなんだよ! [あっち] へ行くにも [ここ] に留まるにも、そのあいだを彷徨うにも、すべてはカネさ! カネさえあればアレ三昧さ!

 男のしゃがみ込む材料庫の床を、握りつぶされた黒い煙草のパッケージのようなものが埋め尽くしている。
 すると、新たな「声」が聞こえた。いつもと違う「声」だ。 

─ 「すいません」? 「注文」? 「おねがい」? 
謝っている。要求している。希望を語っている。これは、つまり・・

「カネを払ってやるから何か作って喰わせやがれ半人前以下の糞料理人もどきが! 要求に応じないのであればオマエを肛姦したのち下水を飲ませ、店兼住居に火を放ち、オマエの親族代々の墓もろとも重機で叩き壊し産廃置き場にしてやる!」

・・そう云う意味じゃないか? 暗号だ。これはそう云う暗号に違いない。オレにはわかっている。しかし・・
誰だ? 誰が厨房の向こうにいるんだ? こんな昼時に? 一体、どうやって、どこから入って来たんだ?


 ♰♰♰

「あの、先輩」
「なんだ」

 黙々とチャーハンを喰う先輩と呼ばれた男に反し、若い男は二口目にして、そこはかとない怒りを感じた。

「これ、チャーハンと呼べないですよ」
「どうして」
「だって、普段僕も冷凍のチャーハン喰いますけど、アレと全然味ちがいますもん」
「おい新人、黙って喰え」
「ウチの母も、残りご飯でよくチャーハン作ってくれましたけどね、はっきり云って、もうちょっとマシでしたね」

 先輩は、レンゲでチャーハンを三度口に運ぶと傍らのスープを一口飲む。頬、顎の下のたるみ、耳の付け根が一体化した広く横顔を占有する肉が咀嚼に合わせ規則正しく震えている。そして眼鏡の横から見える目は相変わらず無常を凝視する静止した一刹那それ自体のようである。

「なにか変な香りがすると思いませんか? きっといい加減に作ってスパイスを間違えたんですよ、きっと」
「おい新人、中国ってのは広いだろ、それぞれの地域でチャーハンだって味が違うんだ。君が知っているチャーハンだけがチャーハンではない」
「なにをおかしなこと云ってるんですか。チャーハンはチャーハンですよ、先輩」
「こう考えるんだ、今、君は腹を立てているのではなく、人生初の経験に驚いているんだ。君が持っていたチャーハンの概念をくつがえされ、戸惑っているんだ、と」

 新人は、「この先輩は一匹狼タイプと云うより、単にズレているだけなんだ」と推測した。変人と呼ばれる者の典型的な自己愛のひとつがこの「ズレている自分」と云う属性への強烈な意識だ。とすれば この先輩とはこの先、話は交差することはないだろう。別にこの先輩が指導責任者と云うわけじゃない。それならこっちは勝手にやらせてもらう。こんな社員なんてその内お払い箱になるに決まっている。蹴落とすことだって簡単だ。こんなひとにはまったく意味不明だろうけど、僕の訓話を一応聞かせてやろう。

「そもそもですね、エビも刻みカマボコもコーンも入っていないじゃないですか。変だと思いませんか? 必須な刻みハムのかけらすら見あたらなかったじゃないですか。これは絶対チャーハンなんかじゃないですよ。それに、なんですかこの味の薄さは!」

─ 食べ終わった。スープも飲み干した。さて、このデュラレックスに注がれた液体は何か・・こ、これは・・凍頂烏龍茶じゃないか?

 さり気なく置かれた金色の液体は、広がる闇の荒野の果てに踊る狐火を見るような衝撃だった。

「要するに、先輩はマズくても黙って喰うのが『大人』だと勘違いしてるんですよ。大人しい消費者でいることに甘んじているのが快感なんだ。それより、先輩はこの味どう思ってるんですか?」
「俺はこれもアリだと思ったが。心臓病リスクを考慮すれば、薄味は好ましい」
「なーるほど、取るに足らない美点を持ち出して、大きな錯誤を無視する。そう云うことですか」

─ なんて稚拙な考えなんだ。なんだ、もう僕が勝ったも同然じゃないか。

「わかりました。それじゃ僕が先輩の分も代弁して、抗議しましょう」
「よせ。それに、俺にはなにもここのチャーハンに関して不満はない」
「あーあーわかりました・・おーい、ちょっと!」

 新人は立ち上がると灯りのない厨房の奥に向って叫ぶ。
 汚点だらけのコック服が張り裂けそうな肉体を揺らし、焦点定まらぬ目の店主はのっそりと無言で現れる。先程、湯気立つ皿を運んできたときは気が付かなかった。この豚のような男、眼鏡をかけ、無精髭を剃れば、この先輩とほぼ同じ顔じゃないか? どう云うことだ? まあ良い・・

「あのねえ! ちょっとこのチャ・・」

─ 右目に一瞬熱さを感じ、黒い液体のようなものが目の前に飛び散り、店主のコック服に新たな汚点をつけたがすぐに他の汚点と見分けがつかなくなった。それが左目で見えた。何故か左目しか見えない。「出来事」と感知し得なかったほどの風船が破裂するような短か過ぎる爆音は本当に音だったのだろうか? 涼しい。右目から頭の奥へ冷風が吹き抜けるような感覚がする。


 ♰♰♰♰

─ シリンダーを解除し拳銃を傾けると薬莢が、風鈴のような音をたてコンクリートの床に落ち、流しの下に転がった。この弾丸はいつかオレの頭を打ち抜く筈だった。何故だ? 何故いつも、他人だけが死んでいくんだ? オレには、死ぬ資格さえないのか?


「ご主人」 肥った客が立ち上がった。


大変 美味いチャーハンでした


─ 眼鏡の奥の目が、オレを挑発している、これは明らかにオレに向けられた刃だ。


油は
ラード 胡麻油 葱油をお使いなのでしょうか
熱した三種の油で
少量の刻み大蒜と用意した半量の刻み葱を炒めたのち
合挽き肉を炒め合わせたのですね


─ や、やめろ! ブタ!


肉汁が飛ぶ寸前に
数滴のオイスターソースを手早く混ぜ
そこに
米飯を投入したのですね


─ だ、だまれ! オマエ! 一体誰だ!


そこで
わたしは 「ザッ ザッ」 と云う音で推測したのですが
ご主人は二人前を一度にお作りになった
つまり
使い込まれた大きな中華鍋をお持ちのようですね
しかし
こんなことは当然でしょうか


─ 殺す! オマエを絶対ぶち殺す!



肉 
大蒜 
葱が 
油によってそれぞれ独立した分子でありつつも統合され
雲のような秩序を構成しかけたそのとき
貴方は
新たに胡麻油を鍋の隅に足し
そこへ
不穏な溶き卵を迷うことなく注ぎ込んだ
溶き卵と云うものは
この「雲」と云う概念の
更なるアナロジーであることは云うまでもありません
そして 貴方は
その溶き卵に
五香粉を混ぜていた
アナロジーに拮抗するアナロジー
貴方の幻視したものが
わたしにもはっきり見えました
それから貴方は
溶き卵が固まらぬうちにすべてを混ぜ合わせ皿に盛り
残りの刻み葱を散らした
・・すべては禍々しくも音楽のようでした
しかし
一音もミスタッチせず
ご主人は演奏なさった


─ やめろ! もうやめてくれ!
オレは今までこの世には二種類の存在しかいないと思っていた。オレのチャーハンを喰う人間とそうでない人間だ。しかし今、オレの目の前にいるのは客の姿で出現した「神」だった。オレは今、「神」に秘めたる罪を糾弾されているのだ。


それにしても
この時勢のさなか
チャーハンはもとよりスープにさえ
ご主人はMSGをお使いではない
チャーハン スープ 
そしてチャーハン そしてスープ
狂乱と官能 二つの混沌を往還する煉獄
貴方の創造には
MSGへの狂信など付入る隙はない
ご主人の因果なる妄執側からの真摯な批判
実に感服致しました


「ごちそうさまでした!」


 ♰♰♰♰♰

─ オレは叫んだ。厨房を抜け階段を裸足で駆け上がった。両頬を涙が止めどなく伝い落ちるのがわかった。号泣していたのではない。意図しない叫びと涙が同時に起きる現象だ。このときいつも、オレの意識だけが同期していない。

・・ここは、オレの部屋か?
真っ暗だ。頭上も真っ暗で天井が見えない。
足の裏が、濡れた厨房の床のような感触だ。


 はるか遠く、窓から月明かりが差す六畳間ほどの部屋に、色の濃い水泳ゴーグルを装着した老人が布団に横臥している。
 窓の外に降る雨が光っている。
 男は老人の枕元に駆け寄り、跪く。


「父さん!」
「おい、部屋に入るときはノックくらいしろ」
「フスマだよ」
「そして、もっと痩せろ」
「えっ・・そんなことより、教えてくれよ」
「ふん」
「高校途中で辞めて悪かったよ、万引きだって、下着の窃盗だって、中学生を恐喝するのだってもう反省して一切やってない、本当だ! オレは馬鹿なりに今頑張ってるつもりなんだ」
「お前はどうして前置きが長いのだ?」
「父さん! 『エムエスジー』って何だよ?」


 布団から首だけ出した老人は一分も身じろぎしない、目は見えているかすらわからない。


「俺は、こんな粗忽者の息子に、店と一丁の拳銃を遺して死んだのか。お前が、過去にどんな馬鹿げたことをしても、俺にはどうでも良いことだった。しかし、永劫変り得ぬお前の馬鹿さ加減には、俺は情けなく涙も枯れ果てた」
「父さん! お客が云ったんだ! オレのチャーハンには『エムエスジー』が入ってないんだって!」
「良く聞け、粗忽者の馬鹿息子よ。『MSG』と云うものはだな、『マジソン・スクエア・ガーデン』のことだ」
「マ、マジソン・・?」
「そんなものをチャーハンに入れる馬鹿があるか、情けない」
「父さん、それって・・」


 ♰♰♰♰♰♰

 男が昼飯前に訪問した顧客と駅の間に唯一存在する建物がこの店だ。
 男は楊枝を噛みながら店を出た。駅までの道は一本しかない。顧客廻りを続行する。息が葱臭い。

「あ、課長、報告遅れましたが、午前中のお客様、はい、契約は継続で、ええ、OKです。それと、今日一緒だった新人ですけど、途中でバックレました。ええ、明日はもう出社しないと思いますね。さあ、なんかイヤになったんじゃないですか」


                    了
 
 
 


散文(批評随筆小説等) 黄金挽肉炒飯殺人事件 Copyright 墨晶 2020-07-07 03:42:20
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