退職の日に / 旅立ちの日に(修正最終版)
beebee

 長年勤務して来た会社を7月末に退職した。最後は仔会社に転籍して経理責任者をしていたが、丁度グループ会社の再編と重なり、四半期決算を終わらせて落ち着いた所で退職できた。持病の緑内障が進んで来て、視野に斜がかかるようになっていた。数字が一目見て分からなくなって来て、経理としてはそろそろ迷惑をかけない内に会社を辞めようと考えていたのだ。
 私は20代後半に網膜剥離で左目を潰していた。若かった私は、片目になったことに全く頓着しなかった。元々強度の近視だった私は40歳を超えてから老眼となり、眼鏡を二つ使い分ける様になった。そして60歳の健康診断で一つしかない右目が緑内障の診断を受けた。緑内障は視神経が摩耗していく病気で、視神経は再生しない。治療は進行を止めるだけだ。
 ある日、寝ながら壁に映る影を見ていて、輪郭がはっきりしないことに気がついた。次に紙質によって読み難い数字があることに気がついた。コントラストの弱い新聞を読むのが我慢できなくなり、文庫本が読めなくなった。毎日何回も文字を見直して、その度に見えないことを確認した。また目が悪くなって来たのかと自問を反芻した。長く生きれば生きるほど失明する。その強烈な皮肉に驚いてしまう。
 定年となり嘱託再雇用されていたが、退職を決めた。
 生まれながらに障害を負いながら、立派な業績を残した人はいっぱいいるだろう。でもこの自分が、この歳で急に失明したら、何をして死ぬまで生きて行くのだろう。何を想い何を残していくのか。もしくは残さないのか。きっとどんな境遇になっても人は楽しみを見つけて生きて行くのだろう。でも今の自分には考えられない。このまま何もしないで、急に目が見えなくなったら、自分は我慢できるだろうか。とにかく辞めて、遣り残したと思う何事か全てをしようと決めた。
 退職の日、少し勤務時間を余して早く、挨拶をして退社することにした。最後に自分を囲んで職場の仲間達が名残を惜しんでくれる。私は次の詩を朗読して最後の挨拶に代えた。

一つ忘れることは / 新生する自我

一つ忘れることは
一つ自由になることかも知れない
我々は過去に囚われ
過去に生きているように思うが
想いは日々新しい記憶に塗り替えられていく

毎日新しい事を覚える一方で
色々なことを忘れていく
苦しいこと楽しいことを忘れていく
それは自由になるということ?
それは時間を延ばしているの?
それは時間を削っているの?

記憶という画用紙には大きさがあって
書きこんでいくと終わりがくる
書き込み続けると上から消されていく
はみ出していく記憶達
消えて行く記憶達
行が終わった記憶は一瞬光をまとい
そのまま消えていく

僕たちは不思議絵の階段のように
現在を登って来たのか?
それとも過去へ下っているのか?
手を伸ばして見上げると
階上から君が手を伸ばしている
一瞬届くように思えたが
お互いがいくら伸ばしても届かない

見上げるぼく(きみ)と
見下ろす君(ぼく)の
立場が入れ替わって
ぼくは無限空間に
閉じ込められたことを知るのか?

ぼくは毎日色々なことを忘れ
ぼくは毎日色々なことを知る

でもそれは質量保存の法則のように
色々掛け合わされ除され
もしくは加えられ減じられ
色彩され脱色され
拡散され凝縮し
昇華され結晶し
ころんと

コロンと
転がり落ちる
光 / 闇
雫 / 自分

こんにちは 新しい自分

『 新生する自我とは、不断に繰り返す想い(記憶)です。私はこれで退職して行きますが、皆さんに対する想いは、これからもこの職場の中にあって続いて行く、きっとこれからの皆さんの想いも巻き込んで新生して行く。また一方で自分はこれから一人になって、新しい自分を創って行きます。新生すると言う、この新しい門出に皆さんと一緒に働けたことは、とても幸せでした。
 この詩は劇的に変化して行く曇り空を見て想うことを書きました。雲の様相は変化し続ける自分のようでもあり、それは連続するようでもあり、まったく違うようでもあります。一万年前の雲の形が再現されているのか 、千年後に繰り返す様式なのか 、無限なのか有限なのか 、でも本質に変わらない規則性やルールがあるのかなどと、 想いはつかない螺旋階段なのです 。』

 エレベータで1階に降りてロビーに向かうと、職場の女性達が急いで後を追って降りて来て、玄関口まで見送ってくれた。長く責任者として務めて来た矜持もあって、失敗しない内に辞めようなんて、一体自分もいい加減なもんだと思う。一体何をすれば自分は満足するのか、答えのない答えを考えながら、入り口の階段を降りて駅へ向かって歩き出した。
 何をすれば自分は満足するのだろう。その答えは分からないが、自分は新生する。それがどんな形かは分からないが、ただ決意だけはある。これから私は新生するのだ。


散文(批評随筆小説等) 退職の日に / 旅立ちの日に(修正最終版) Copyright beebee 2019-03-22 14:34:26
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