コーヒーの詩学
葉leaf

 コーヒーの暗褐色の液体は、私にとってすべての倫理的な源泉である。朝、まだ日が昇らない刻限にお湯を沸かし豆を挽いてコーヒーをドリップする。マグカップに注がれたコーヒーは私の生きる意志をそのまま凝縮している。コーヒーを飲む行為は存在を確かめる行為であり、意志を注入する行為である。私は毎朝コーヒーを飲むことによって、自らの存在を確かめると同時に生きる意志を再確認する。
 コーヒーは善悪を決定する液体である。あるいは美醜を決定するといってもいい。私にとって善い生き方とは美しい生き方であり、美しい生き方とは善い生き方である。コーヒーは通俗的な悪を善に転換する特殊な液体である。例えばコーヒーは殺意の液体であり憎しみの液体であり悪意の液体であり裏切りの液体であり傷の液体である。それらの通俗的な悪を美すなわち善に転化するのがコーヒーの役割だ。
 コーヒーは始まりを告げる創造の液体である。一日の始まり、思考の始まり、仕事の始まり、創作の始まり。コーヒーは何かを創り出す根拠として、動機として、エネルギーとして、飛躍として、私のトリガーを引く。コーヒーは光というよりは闇に近く、光と闇の渦巻きに近い。光と闇が渦巻くところであらゆるものは創造されるのだろうし、私は様々なものを創造する。
 私はコーヒーを偏愛する。コーヒーは郷愁の向かう先であり、孤独な情熱の向かう先であり、人生の余白が漂う辺りである。コーヒーという飲み物には私の人生の出来事が付着しており、一杯一杯のコーヒーにすべてエピソードがあってもおかしくないのだ。コーヒーの苦さは人生の苦さであり、コーヒーの香りは愛の香りだ。私はコーヒーに執着する。
 二つのマグカップにコーヒーを注いで二人で会話をしながらコーヒーを飲み合う。そのとき、その二人は互いの孤独を飲み合っているし、互いの孤独を愛し合っている。コーヒーの酸味を赦し合うということ。それは親密な二人の間の赦し合い、互いの欠点や不備の赦し合いに近い。コーヒーは孤独の飲み物であると同時に、愛の飲み物でもある。 


散文(批評随筆小説等) コーヒーの詩学 Copyright 葉leaf 2019-02-09 16:19:17
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