井戸を覗き込む
こたきひろし

長い年月の間にすっかり干上がってしまった井戸からは、水は匂いさえしなくなっていた。
地下水に頼る生活はもうできない。水を汲み上げる手動ポンプは役に立たなくなってしまった。

やむを得ず家に自治体からの水道が引かれたのは、彼が故郷の実家を出て上京し働きだしてから一年位だったと思う。
東京で生活を始めて最初に強く感じたのはあまりの水の不味さだった。
田舎育ちの彼にはとても受け入れ難い不味さだったがその内に否応なしに慣れてしまった。

それでも、無性に田舎の実家の台所あった井戸の水を飲みたくなって涙が出る夜があった。そんな夜は郷里を思い出す感傷と強く繋がって切ない感情に駆り立てられた。

そんな夜は鉄橋を渡る電車の音を聞きたくなって外に出て街を歩き出した。
と言っても、歩き出すのは決まって深夜で既に鉄橋に電車が走らない時間だった。 
総武沿線の千葉にちかい東京の街。
歩けばその内に市街の景色は切り裂かれて、大きな川の堤防にたどり着く。

川に向かう途中で彼は巡回中のパトカーの職務質問を受け不審者扱いされたが上手に嘘をついて難を逃れた。その時彼のポケットにはナイフが入っていた筈だか、彼自身その事を忘れてしまっていた。だからごく自然に振る舞えたので警官は身体の検査までには至らなかった。
運よく解放された彼はふたたび歩き出した。

川が近づいてくるにつれて通りから人の気配が失せていき、同時に明かりはなくなって行き周囲はますます暗闇に近づいていった。
その時、道の左側の町工場らしき建物から火の手が上がり始めていた。それは尋常ではない状況になりつつあったが
彼は構わずに歩き続けた。結果、川の堤防にたどり着いていた。
腐敗しているような水の匂いが鼻を歪めてきた。
それでも彼は階段をのぼりそこに延びる堤防の道から荒涼とした景色を眺めた。
その時始めて彼は月の明かりを感じた。
はるか遠くに電車の鉄橋が川の上にかかっていた。

すると堤防の上の道を若い女がたった一人で歩いてきた。彼の方に向かってきて、彼の側で足を止めた。
その女性は彼の姉だった。
実家に棲んでいた頃から彼女は弟思いの優しい人だった。

姉は言葉を何も発しない。微笑みかけてくるばかりだった。
実家に一緒に棲んでいた頃、風呂嫌いの彼の体を無理矢理風呂場に連れていき、姉は度々彼の体を洗ってくれた。
風呂の水は井戸の水で台所の手動ポンプから風呂場まで管で繋げてあった。
風呂は五右衛門風呂で薪で沸かしていた。温度が下がると薪を燃やし、熱いと井戸の水を汲んで温度を下げた。
風呂場を囲うものは何もなく姉が入ってぬるくなった時は彼が薪を燃やす事もあったし、その逆もあった。
だからお互いの全裸を見てしまうのは日常であった。

堤防に現れた姉はちゃんと服を着ていた。
彼女は弟に川の岸辺を指差した。無言のままだったが、彼もまた無言のままに視線を向けた。
そこにはなつかしい井戸のポンプが備え付けられていた。
彼は迷わずに汲み上げてその水を飲みたい衝動にかられた。

しかしポンプの下の水源は東京の汚れた川の水だった。
汚れた川の水に変わりはなかった。







自由詩 井戸を覗き込む Copyright こたきひろし 2018-12-16 08:53:25
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