月精(あるいは湿原精)
本田憲嵩

――逆さまに曝された流線型の細ながい肢体。澄んだ水面の白い後ろ影は揺れる。世界でも有数の赤い夕陽は沈んだ。そののちに訪れる、この心地よい夜の冷ややかさ。その臀部の心地よいなめらかさ。そよぐ枝葉のように質感のある濡れた黒髪にも、水の星星は灯る。君という樹木の体幹。透明な空気はその間げきを穏やかに穏やかに吹き抜けてゆく。
ただの一度としてついぞ開かれることのなかったとされている、その旧い水門、その錆びた重い鉄扉がついに開くとき、うっとりと揺蕩うように誘いながら、蛇のようにくねりながら、蛇行する水の断面もまた、その月影宿した、球根型の見事な臀部に、どこまでもどこまでも纏わりついてゆく。たびたびに飛び跳ねる水銀色の魚たち。躍動する生命たちの煌き。あるいは月の欠片のような迸り。しだいに間断なく跳ねまわってゆく――


そうして辿りつく。魚たちのオルガズムはついに頂点に達する。


その両生類のように暗く湿った彼女の狭い股間。黒い陰毛の換わりには粘性の暗い苔がびっしりと其処に繁茂していて、むしろ彼女の夜の奥の奥、彼女の毛深い陰部そのものであるものは、まさに此処、この黒い湿原そのものである。
不意に鈍行列車の汽笛が夜空たかく鳴りひびく。レールを滑ってゆく車輪の音と葉のざわめきが静かな伴奏のようにながくながく響きわたる。それを合図として、湿原の咽せ返るような芳香は濃い霧と結晶して、銀に輝く月はその織りなされた神秘のヴェールを棚引かせてゆく。



自由詩 月精(あるいは湿原精) Copyright 本田憲嵩 2018-11-18 21:35:57縦
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