パブリックアートとしての現代詩
腰国改修

詩作品そのものが、パブリックアートとして存在する風景は考えられるだろうか?紙に書いた詩が駅の掲示板か何かに貼り付けられている。とか、石碑に文字を刻み込んで詩が設置されているとか。数多いる詩人の中でパブリックアートとしての現代詩を成立させた人はいるのだろうか?公共の場を認めるその共有者と話し合い、その場の特性を理解して、依頼に応じて詩を作る。などということになると、詩が発注されるということにならないか?そこに対価が発生する、しないは別として。発注されて詩は書けるのか?彼女から「ねえ。あたいのためにポエミュ書いてー」と依頼されて詩は書けるのか?そのあたりも何だかなあである。

公共性というものの小さな単位として学校を考えたとき、校歌を依頼された詩人がいたとして、それに応じて書いた彼の作品が、石碑に刻まれて校門から少し入ったあたりに設置されたとして、それはパブリックアートの一種と言えるのだろうか?対価が発生する、しないは別として。

つまり、読み手でもあり、その作品と空間、生活を共にする共有者と話し合いを重ね、作者とその作品を受け入れる側が納得する。なんてことはあるのだろうか?それは、パブリックアートとしての現代詩などというものが成り立つのだろうか?対価が発生する、しないは別として。つまり、どこかで商業的な旨みや何らかの宣伝やその他メリットがなければ、恐らく今の日本では成り立たないような気がする。

私が不勉強なだけで、今までにそういったものがあるのかも知れない。知ってるよ、という方はぜひ教えていただきたい。

ちなみに、歌碑や句碑のように顕彰を兼ねていたり、故人を讃えたりするものや、例にも出した効果のような歌詞は除くとしたい。

しかし、何だかんだ私の如きへっぴり腰詩人がやれパブリックだのアートだの、製作に対する姿勢だのをとやかく言ったところで犬も食わない。と、思う。


散文(批評随筆小説等) パブリックアートとしての現代詩 Copyright 腰国改修 2018-11-13 14:44:45
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