詩の中の『私』
腰国改修

"私は泣いたことがない"。いや、ある。この"私が泣いたことがない"と言ってるのは、ご存知井上陽水作詞・作曲の『飾りじゃないのよ涙は』の歌詞の中に登場する主人公の私である。

この歌詞、最初から読んでいくと途中まで主人公の性別は分からない。いやいや、分かるでしょうという方は、先に『飾りじゃないのよ涙は』の「〜じゃないのよ」という言い回しから女性だと決めて、この歌詞に接しているからではないか?投げキッス。女性特有のものではない。であれば、「投げキッス受け止めたり投げ返したり」するのは男性であってもおかしくない。それでも、まあ、大抵はこの歌詞の主人公は『女性』だと思う。

何が言いたいかというと、『詩の中の私』は、かなりの頻度で先入観や一般論で左右されないか?といこと。もしも、井上陽水が『私』の代わりに『あたい』を選択していたら、あれ?主人公は女性かはたまたドラアーグクイーンか性転換前のオネエか?とか色々悩まないだろうか?

と、井上陽水はこのあたりまでとして、諸兄(男女平等に気を配れば"諸姉"?)らは『詩の中の私』についてどのような感覚、または使い勝手みたいなものを感じてるだろうか?

私はよく、友人などに詩を見せると、詩の中の私は現実の、つまりその詩を書いた『私』だと解釈され、たとえば『私は黄泉の国に憧れる』と書くと、『大丈夫か?自殺なんて考えているんじゃないだろうな』と心配される。これは、いくつかの先入観が重なって、読み手の中で『私』というものが作り上げられたのである。さらに、たとえば『君は世界一の馬鹿だ!』と書いても、まさかそれが自分のことと思わなかったり、自分は利口だと思って全くなんの気にもとめない。これは、作品というものは、よく言われるように、作者の手を離れたら読み手のものであるという例のあれである。まあ、仕方がない。

こんなこともあった。またも友人に詩を見せると『お前は変わっているなあ』としみじみ言われた。確かに私は変わった詩を書いた。その中の『私』を書いた私だと決めつけて話している友人は私を変わっていると評したのだ。で、私は苦笑しつつ、それは自分のことを書いた詩ではないよというと、友人は少しムッとして。『なに?じゃあ嘘を書いているのか?』と。私は『いや、いや、嘘を書いてはだめなのか』と。すべての詩が真実だと思っている純粋な友人を何か傷つけたようで私は黙ってしまった。純粋な読み手である友人にとっては書き手とは違う制約や規範のようなものがあるのだなと思った。もちろん、書き手の中にも『私』といえば『私』という正直な人もいる。何がどうというわけではないけれど、私が体験した『私』の話。

最後に幼女がよく、自分のことを名前で呼んだり、話している相手が自分の友人や環境をまるですべて知っているかのような前提で話したりしていることに気がつく。早々と『私』というものを知り、身につけた子は『私の友だちの〇〇ちゃんはね〜』と話すようになり、自分自身を客観視出来るようになる。長じても自分自身を客観視出来ない人がたまにいて、『私は』と書いているものの、『リカはね』とか『ユミはね』などと表現しているのと変わりない場合がある。が、本人は気が付かない。こういう幼い詩に出くわすとなぜだかむずがゆくなるのは私だけだろうか?

というわけで、とりとめのない与太話はこれにて。


散文(批評随筆小説等) 詩の中の『私』 Copyright 腰国改修 2018-10-31 01:21:29
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