『藤井龍平の肉迫』より。
ふじりゅう


私は詩人ではない。
詩人としての体位に既に私はない。

あの時
ある一葉の詩を見て、詩を書き重ねて、重ねては消して、そしてやっと見つけたある意味での「答え」をネットの詩投稿掲示板に初めて貼り付けた私は確かに詩人だった。

ある一葉の詩を見て、初めて憧れに似た感覚を忘れられず、ただ純粋に、ただ執拗に近づくことを願ったあの頃の私は誰がなんと言おうと確かに詩人であった。

忘れられない、詩があった。

ただ、私は舞い上がっていたのかもしれない。ある投稿掲示板を見つけた。その名前は最早語るまでもないある場所だが、その、先程述べた作品はなぜか「優良」という破格の扱いを受けてしまっていた。私の自制心は壊れていった。眺める臭いが灰色に近くなった感覚、というと詩っぽくなってしまうがこれは詩なんかではない。

私は詩人ではない。

気がつけば私にとっての詩はツールであり、道具であり、言わば恥を隠すズボンのようなものだった。人間の5欲の中で、特に私は「名誉欲」に溢れていた、とは後にわかる事。私は、

認証されたくて。認識されたくて。許容されたくて。誇示したくて。認められたくて。認められたくて。認識されたくて。許容されたくて。許されたくて。認められたくて。認められたくて。その為に詩へ愛を注ぐようになっていた。私が私である為の詩。私が私としてある為の詩。恥を隠す為の詩。それだけ。が私の、アイデンティティ。


「世界の日本の学校の教室の一角の一角」
「男の地下道の中心音」
「遠くで船が往く」
「つばさ」
時間が経ち
「性と恋」
「ピルエット」
「白い目」
「Ha・Ha・Ha・・・」
「夏風」
「灰の様なこころ、灰のようなこころ」
時間が経ち
「シクラメン」
「零れ落ちた灰を」
「俺のギター」
「文明天国」
「藤井龍平の肉迫」

これらは全て、詩ではなくてな。オレを認めさせるための。大賞とるための。熱のこもった最高の作品達だ。だからここに紹介する。みんな見てくれ。

実を言うとな、沢山コメントしただろ、あんなものもな、私の作品を認めさせるための、もっと言うなら私を認識させるための、ただそれだけの「偽善」だ。あ、全然コメントのない詩に、あえてコメントしたこともあったなぁ。コメがすくねえと数少ないコメントしてくれた人の名前は覚えてるもんだろ。だからコメが多い作品にコメントしたりはしねえ。はっきり言うとな、人の作品なんてどうでもいいんだよ。正直良いと思った作品なんか殆どない。ない。俺が最高だ。だけど俺の作品なんかいまや誰も見向きもしねえだろ。それは俺という存在が認識されてないからだ。いっそのこと運営に名乗り出れば良かったかもな!ハハハ

クソ、だけど推薦にすら選ばれねえ。箸にも棒にもかかりゃしねえ。なんだこの場所皆オレの事を分かってねえこんな素晴らしい詩がこの場所にあるか?あ?ねーだろ!わかったらとっととオレの作品にコメントしやがれってんだけっどいつもこいつも分かっちゃいねえどいつもこいつも分かっちゃいねえどいつもこいつも認めちゃくれねえだからこんな場所おさらばだ!





これは私が最後に残した詩であり、運営側に即座に削除された、言わば問題作だ。これを「詩」と呼ぶものなど誰もいまい。あの時と同じだ。私は自らの名誉に狂って去ってしまったのだ。




そう言って長い長い彼の話がようやく一区切りすると、古汚いマンションのベランダでモクモクと煙草の煙が流れました。そして地球を汚します。

彼の差し出した1枚の紙切れに、一葉の詩が書かれていました。
それは、、と彼が続けます。何年かして書いた、と。しかし私は、、と。
続けますが私はその詩のあまりの稚拙さに逆に吸い込まれていく感覚を覚えてしまい。忘れていた感覚。それはピカソが辿り着いた真意に私も巡り会えた感覚。
彼の話もそこそこに、私はその詩を眺めました。余りに稚拙。そうとしか言い様のないその詩は、果たして彼にむんずと取り上げられクシャクシャに丸めて捨てられます。…。


私は詩人ではなくなってしまった。詩をツールとして使い。詩を道具として使い。


そんな彼はなぜこの話を私にはじめたのか。その理由は明らかなのです。
彼は、彼の心を、告げることで、私に、認めて欲しいだけ。
私に肉迫して欲しいだけ。


自由詩 『藤井龍平の肉迫』より。 Copyright ふじりゅう 2018-10-21 16:37:20
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