渚にて
ホロウ・シカエルボク


リズムの残骸は、砂浜に沈んで、視覚障害者の見る幻覚みたいな朧げな輪郭だけが、晩夏の太陽のなかで揺らいでいた、それはジェファーソン・エアプレインの音楽を思い出させた、敢えて違うところで繋がれたパズルの、絵とも呼べない絵の、それでも何かを隠しているのかもしれないと思わせるような、成立している不整合―動いているようにも、止まっているようにも見える心臓、そんな揺らぎ、そんな印象…機銃掃射のあとのように荒れた砂のなかで、そこだけが卵を抱く魚のように存在を示していた、だけどそれは名前をつけるのならば墓標に違いなかった


台風に炙られた街に残った不快な湿度は、レイプされた女の表皮に残った暴力的な体液のように澱んでいた、無表情な殺戮みたいに海岸線を無数の車が行き来して、そのたびに空気からは綿埃のような臭いが漂った、散らかされたような鱗雲は空一面に広がり、その隙間隙間から待針のような陽射しが無邪気な鋭利を投げかけていた、人影はなく、あるいはどこか見えないところにあって、誰も居ない国に来てしまったかのような錯覚を覚えさせた、だけどもしかしたら、本当はそんな場所で生きることをどこかで臨んでいるのかもしれない、そんな閃きには抗いがたい真実の香りがした、どうしても受け入れきることが出来なかったのは、それだけではないこともまた真実だったからだ―矛盾を否定すると人間は人間ではなくなる、許容出来るすべての範囲のなかで着地点を探そうとすること、もしも人生というものを強引に定義づけるなら、きっとそんなことになる


砂浜の途切れるところには巨大な岩場があり、どこまで続いているのか判らない天然の石畳が広がっていた、足を踏み入れると膨大な数のフナムシが乾いた音を立てながら四方八方に散り始めた、虫の足音がどことなく怖ろしいのは、きっとそいつが頭のなかで蠢いているかのような錯覚を覚えるからだろう―昔読んだコミックのせいかもしれない、死体のなかに入り込んだ無数の虫が、さもそいつが生きているみたいに動かしてみせる―そんな場面があった、きっともともと人間はそんな虫共の集合体なのだ、いつかわが身の薄皮が破れて、なにかおぞましいものが姿を現すのではないか、そんな恐れがないといえば嘘になる、そして恐れは往々にして、憧れでもある、人一倍死を恐れるものは、実は人一倍死んでみたいと考えている…フナムシたちは器用に、足元だけを避けて広がっていく、まるでサーチライトのなかにいるみたいだ、そしてそれが照らしているものは、いったいなんなのだ―?


岩場の終わりには、人ひとり住むには十分なくらいの、だけど家と呼ぶには少し躊躇われる程度の小屋がひとつ、岩盤に投げ捨てられたかのように建っていた、いったいいつからそこに在るのだろう?屋根の色も、壁の色も、もうもとはどんな色だったのか推し量ることは出来なかった、まるで長い時間を掛けて影に塗り潰されたみたいな、そんな色をしていた、けれど造りは確からしく、ドアも窓もきちんと閉ざされていた―窓ガラスひとつ、割れてはいなかった、おそらくここには波が来ることはなく、また、強い風の道からも外れているということなのだろう、近付いてドアノブを捻ってみると、軽い音がして開いた、ドアノブの感触からして、もう長いこと誰もそこを開けたことがないだろうことは明らかだった


悪事を見つけられた子供のように無数のフナムシがドアから逃げ出した、小屋の中は海の香りで満ちていた、必要最小限の家電、台所、寝台、作り付けらしいそこそこの本棚、あるのはそれくらいだった、マンスリー契約のマンションなら上出来という感じの設備だ、洗面用具やシャンプー、石鹸なども見受けられたが、バスルームは見当たらなかった、それは海で澄ませていたのかもしれない―床には一応の細工がされていたようだったが、いまではほとんどもとの岩盤に戻っていて、そしてそれは少し濡れていた、以前はここには波が来ていなかったのかもしれない、地が沈んだのか、海面が上昇したのか、それは判りようもないが、とにかくそんな理由でここはフナムシに明け渡されたのだろう…まともな状態なら座り心地の良さそうな椅子がひとつあった、いまでは誰の体重も受けとめることは出来なさそうだった


ふいに部屋の中が暗くなった、まだ日が翳る時間じゃないはずだった、窓を見るとフナムシで埋め尽くされていた、そこには哀しみがあるように思えた、「なにもしないでくれ」「放っておいてくれ」そこに張り付く以外どんなこともない彼らのアクションは、そんな思いを連想させた、額に手を当ててそのおぞましい光景を振り払うと、開けたままのドアから小屋を出た、ひときわ高く乾いた音がして、フナムシたちは帰り道を示すようにここまでの道だけを開けて見せた


砂浜にはリズムの残骸、すべてが夢だったといえばそれで済みそうな気さえする、色のない陽炎、グレイス・スリックの歌声がどこか遠くから聞こえているような気がした。




自由詩 渚にて Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-10-07 14:54:18縦
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