合図
ペペロ

アルバイトは行かなければやめられる。やめるつもりがなくても、行かなくて、放っておけばやめられる。
彼に言うと世の中そんなに甘くないとか言われる。あたしは彼をバカにしてるから、首筋にタトゥーいれてるような奴にそんなこと言われたくないと思った瞬間、ついでのようにあたしはみじめになった。

樹木希林が死んだ。なにかそれがあたしにとってすごい重要なことに感じるのはなぜなんだろう。
女優になりたいわけでも彼女が母に似ているわけでも、ましてやあたしが似ているわけでもないのに。

彼に抱かれていると、こいつはあたしが町のどぶ川でもなめるのだろうかと思う。
どこでおぼえたのか嘘くさい言葉でほめてくるとシラケる。
嘘くさい言葉で意地悪されるほうがしっかりと燃えてくる。

樹木希林の左目は失明していたようだ。右目や口許や鼻のまわりの肉付きがなつかしい。
ラブホテルで彼女主演の映画をみたことがある。それがあたしのどっか重要なところに居座ってでもいるのだろうか。

ファミレスで彼はとても不機嫌だった。あたしはそのくらいが自由で気楽だ。
プロ野球の応援帰りの集団がいた。彼らは上機嫌だった。彼が不機嫌な理由がこれだったらかわいいと思う。
外は雨が降っている。地下鉄で帰るかラブホに行くか、あたしが決めていいなら、彼といっしょにイヤホンをしてしばらく走りたい。雨で風邪をひくくらい、汗なのか雨なのかわからないくらい、彼とずぶ濡れになりたい。

あたしは結局風邪をひいた。あの夜あたしたちはイヤホンで音楽を聴きながら雨のなかを走って、蛍光灯と埃とガムの匂いくらいしかしない朝一の地下鉄にのってそれぞれのおうちに帰った。
あたしは途中音楽を聴くのをやめて、樹木希林の映画を断片的に思い出しながら走った。
映画はひとが死んでいく内容だった。もうひとりの主演俳優の名前や顔は忘れた。となりを走る彼の名前や顔は忘れないのに。それがすこし不思議だった。

からだの調子が悪いのに彼が会いたい会いたいと言ってきた。あたしは台所のおかあさんとリビングで話をしながら胸をはだけて、その写真を送ってあげた。
しつこいくらい彼からのラインが鳴っておかあさんが誰と話してんのと台所から顔をのぞかせた。

生きているとき彼女はテレビで全身ガンだと言っていた。あたしは嘘だと思っていた。
でもほんとうだったのだ。
嘘も言い訳もせずにあたしは生きていた。
それは強い意志などではなくて、気ままに生きてきただけの話だ。
風邪でしんどい。樹木希林はもっとしんどいここ何年間だったのだろう。
喉が痛くて鼻もつまっている。なによりも頭が痛い。樹木希林は全身が痛かったのだろうか。

彼とひさしぶりに会った。おれも風邪ひいてたんだよ。樹木希林の映画の俳優の名前と顔を思い出した。あたしにとってそれはどうでもいいことだった。
樹木希林の映画もたまに漠然と思い出すだけだ。ウィキとかYouTubeとかで探すような熱心さとはほど遠い。樹木希林をおもうことも、あたしにとっては気の向くまま。
彼はホテルに行きたがった。あたしはそれにカチンときていた。それがなんだか準備完了の合図のように思えた。つぎに踏み出すところがどこなのか分からないのに。






自由詩 合図 Copyright ペペロ 2018-09-22 17:57:16
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