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ちょりさん、choriさん、ILL CHORINOさん、たぶん彼はどの名前で呼んでも返事をしてくれる。だからなんだってこともないし、だからって彼を褒めたり、彼の詩を素晴らしいだなんて思ったりしない。
そんな関係ない話から、彼の詩の感想を述べてみたいと思う。
「ポエムなめてる奴らは全員ぶっ殺す ただしやさしく そのあとで愛す」
まずはこのタイトルだ。やたら物騒で、それでいて慈愛も感じる。ここで言われているところの「ポエム」というものが、どういったジャンルの詩であろうと、そんなことは関係ないなと思った。つまりは、そういったものを書いている全員に発せられているのだ。
順序だてて理解すれば、殺したあとに愛すのだから死んだ者を愛するということになる。しかし、そう理解するような姿勢こそが、この詩のタイトルにもある「ぶっ殺す」対象となるのだろう。どう読むべきかなんていうのは読む側の自由で、ここでも特に強制はされていない、読みたいように読めばいい、けれど「愛す」という力強さに、僕はどこか安心していると思った。
読み進んでゆくと、「自分のこと」「自分の身近なこと」「自分の身近な人のこと」「自分をとりまく出来事のこと」というふうに、対象がしだいに広がってゆくのがわかる。しかし語られているのは作者の姿勢だ。僕からすれば、言わんとすることはわかるけれど、完全に感情移入などできないし、共感にも限度がある。そのままで締めくくられれてしまえば、取り残されてしまったような気がしてならないだろう。
ところが「わがままはひとを幸せにしたいときだけ言うんだ」という書き始めの連から、言葉の向きが一変する。それまで、不特定(強いて言うなら作者が想定している、あるいは現実に見た人の誰か)に向けられていた言葉が、その連からは「読者」に向けられるようになる。そこに、この詩の魅力があると思った。
そして、そこでもまた作者は姿勢を提示しているわけだ。そのあとに作者の意見が述べられているとしても、それは姿勢として受け止めることができる。
前述したように、どう読むべきかなんていうのは自由だ。僕は勝手に読んで、この詩からはいささかの強制も感じなかった。それはおそらくタイトルの洗礼を受けているからであろうとも思う。けれど、それだけでなく、詩の全体を通して感じられる言葉の向きの変化が、見通し良く移っているからだということも付け加えておきたい。
最初にも述べたが、だからって彼を褒めたり、この詩を素晴らしいだなんて思ったりしない。
僕はただ、こういう詩や、こういう詩が書ける彼を、羨ましいと思うだけだ。
彼は別段強制することもなく、常に呼びかけているように思う。
「いつだってこっちにくればいいさ、ぶっ殺したらそのあと愛してやるからさ」と
僕はたぶんそっちには行かないと思うけど、ときに羨望の眼差しを向けることだろう。