鮮やかな流血のまぼろし
ホロウ・シカエルボク



脳髄を満たし、頭蓋骨をなぞるように流れ落ちる観念的な血液は、ジェルのような生温い感触を塗りつけながら、といってもはやこの肉体にはどんな未練もないというように潔く落ちて行った、それはいつか精も根も尽き果てた恋人の、素っ気ない背中によく似ていた、空調の不自然な冷たさ、それは俺にモルグを連想させた、それは予兆なのか、それは…悪魔憑きのようにやつれた目を見張り、手元に転がっていたペンの先で手のひらを軽く刺した、それにはどんな効果も期待していなかった、ただ意識がまだ現実の線上にあるのか、それを確かめてみようと思っただけだった、果たしてそれは確かにまだそこにあったし、幻覚のようなそれを除けばたいして不具合もなかった、ただただ血まみれになった自分自身のビジョンが亡霊のように憑りついているだけだった、頭を振ったり―腕を回したり、そんな真似はいっさいしなかった、無意味だと判っていた…そんなことでどうにかなるくらいなら、この血は初めから流れ出してくることはなかっただろう、生身のことだろうと内奥のことだろうと…それは流れるべくして流れ出してきたものなのだ、髪の毛や、シャツが真っ赤に濡れて張り付くのを感じる、まるで不自由な皮膚のように―ラジオで流れているバンドは、失われた愛を嘆いている、それは死に似ている…馬鹿なことを言うと思われるかもしれないが、初めて聴いたわけでもないその懐かしいナンバーは、その歌の中にある喪失は、その夜の瞬間確かに死と同じようなものだった、それは温度と同じようにそんなふうに感じられた、俺は無意識に右手で―本当にはありはしないべっとりとへばりつく血液を拭い取ろうとしていた、それはやはり空振りをして、ただ前髪を少し払っただけだった…だからといってべつにどうということはなかった、そんなことは初めてではなかった、ただいままでのものとは少し、アプローチが違っていたというくらいのことで―そう、そんなふうにある意味で露骨なアプローチはなかった、重く沈み込むビートのような鼓動がそこにはあっただけだった、そう、モールス信号を読み取ろうとしているみたいに、俺はそれに耳を傾けているだけだった…思えばあの鼓動は、あの振動は、俺から逃れようとする観念的な血液どもの悲鳴だったのかもしれない、俺はそれをもう少し…秘められた情熱のようなものだと考えていたかもしれない、なぜならその鼓動には、ほんの少しなにか俺を落ち着かなくさせる要因があったからだ、野性を取り戻した動物園の檻の中の虎のように、限られた領域の中でうろうろとさせるなにかがあったからだ、だがいまこうして考えてみると、あの時の感覚は俺のものではなく、いま流れだしている血液のなかに秘められたものであったのだろう、いまの俺は眠り過ぎたあとのように消耗していた、少し心地よいと感じるほどに完璧に使い果たされた消耗だった、壁にもたれて座りながら…両の手のひらで顔を隠してすべてが流れ切るのを待った、そうして目を閉じて待っていると、どこかの国で死刑囚を相手に行われた実験のことが思い出された、目隠しをした囚人の身体を軽く刺して、怪我をしたように思わせる、ほら、血が流れているぞ、と言いながら囚人の身体に水滴を垂らす、この血が流れ続けたらお前は死んでしまうぞと暗示をかけ続ける、そうして水滴を垂らし続けると、囚人は本当に死んでしまう―どれだけ似ているだろう?この血は俺自身を失わせるための血だろうか?それとも何かを浄化しようとする流れなのだろうか?俺はその血の感情を理解しようと努めた、でもそれは無駄なことだった、その流れには俺が入り込む余地はなかった、アメーバのような表面はあまりにつかみどころがなくて…俺の意識など侵入する余地もなかった、俺はため息をついてこめかみを一度殴る、それはゴム板を殴るような感覚に阻まれる、畜生、俺は口に出してそう言う、これは蝕まれている―本当にはそこに在るはずのない―流れているはずのない血液に阻まれて…この血は何処から流れている?何が失われようとしている?幻想の血を流し過ぎて死ぬと、それは失血死になるのだろうか?答えはない、そんなもの初めから判っていた、疑問符なんて退屈しのぎの雑誌のようなものだった、たとえば運命や、宿命やなんかが、そんな声に応えてくれるなんて思ったことは一度もなかった、俺は壁にもたれて座っている、血が流れ続けている、いつかこの血の海に引きずり込まれて、俺の存在は失効されてしまうかもしれない、もう一度血を拭おうとしてみる、当たり前の皮膚の感触だけがそこにはあった、在る、無い、出鱈目な実感が視界を朦朧とさせる、そうだ、この血は、確か―



自由詩 鮮やかな流血のまぼろし Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-08-26 23:02:52
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