そんなことを話している間に
ホロウ・シカエルボク


誰かが酩酊の果てに履き損ねたきらびやかな厚いソールのサンダルが事故車みたいに銀行の壁脇に転がっている、その靴の持主はもしかしたらもう息をしていないかもしれない―理由はわからないけれどなぜだかそんな気がした、子犬ほども太ったドブネズミが肥満体の女が暴れているみたいな足音を響かせてゴミ捨て場の方へ駆けてゆく、俺たちが生きる純粋な理由がもしも欲望なら、あいつは神になれるだろう…硬過ぎるベッドに横になって俺はそんなささやかなショーをぼんやり見ていた、川が蒸発しながら道路を流れているみたいな夜だった、きっとどこかでうまくない酒を飲み過ぎたんだ、はっきりそうと思い出せるような記憶はなかった、記憶のすべてがそんなものだったらいいのに、と俺は考えたが、そんなものは赤ん坊でもないかぎり手に入れることは出来ないだろう、すべてのものは手に入れた瞬間から失ってしまう宿命を持っている、それに抗うことはどこのどんなやつにだって出来やしない…お前はそれがいつまでも手のなかにあると思っているんだろう、俺はそんなものをいつまでも信じたりはしない―人生において約束されることなどひとつもない、人生は危うい足場を急ごしらえしながら登っていく崖のようなものだ、それが崩れないなんて誰にも言い切れない、いや―崩れて当たり前の足場の上にいつだって俺たちは立って、もしかしたら命取りになるかもしれない一歩を踏み出そうともがくのだ、ふふふ、と誰かが笑った、それはアスファルトに反射した俺の声だった、つまり立ち上がる時が来たのだ、そんなふうに自分が声を出しているとわかった瞬間は、いつだってその時だ…それはいつもの夜とは違っていた、立ち上がるのにひどい苦労が必要だった、失くした時間のなかになにがあったのか?そんなこと思い出せないのはわかっていた、だから、自分を責める気にもなれなかった、もしも責める理由なんてものがあるとしたら、こんな歳になるまで生き抜いてきたということぐらいだろう―もちろん、そんな気分も時に寄りけりだ、自分という人間が厄介だということを知れば知るほど、妙に愛おしく思えてくる瞬間だってあるときはある―街灯に完全に身体を預けながらどうにか立ち上がったがすぐに崩れ落ちてしまった、そんなことはここ数年まったくなかった、記憶があろうがなかろうが、限界はわきまえているという自負があった、でも、こんな有様になっているってことはきっとなかったんだろう…ヘイ、と頭の上で声がした、GTAシリーズからまんま抜け出してきたような黒人の売春婦が楽しげに笑いながら俺を見降ろしていた、「なにしてるの?ブロードウェイにでも出るつもり?」前時代的なジョークだな、そう言おうとしたが口が動かなかった、しかたがないのでほっといてくれ、と言うように手をひらひらさせて追い払おうとしたが女はしゃがんで俺の右腕を両腕で抱いて力の限り持ち上げた、それほど力があるようには見えなかったが、不思議なことに俺の身体は簡単に浮き上がった―俺が驚いて女を見ると、女はふふん、という顔をした、「家はどこなのよ」「あたしもうあがりだから連れて行ってあげるよ」「夏とは言えこんなとこで寝てたら風邪引いちまうよ」と、三択クイズを出すみたいに矢継ぎ早にそう喋ると俺の顔をじっと見た、正解はどれでしょう、とでもいうように…金なら払わねえぞ、と俺はようやくそう言った、「金なんか持ってるかどうかも知らない」ばかね、と女は呆れたように笑った、「自分で立てもしない相手を勃たせることなんか出来ないわよ」ああ、と俺は思わず同意してしまった、それは女にしてみれば降参の意味合いだった、さぁ、どっちへ行くのというように腕を引っ張った、そのまま前方へ、と俺はリクエストした、よく喋る女だろうと思って半ばウンザリしていたのだが、歩き始めてからはまるで口をきかなかった、要するに仕事にする気はないのだろう、と俺は解釈した、話し始めたのは俺の方だった、「さっきの…」「ん?」「どうやって持ち上げたんだ?腕を取っただけで」「ああ」と女は笑った、「アイキドーみたいなもの」「ブジュツか」「そうよ」あたしナースだったんだけど、と女は急に馴れ馴れしく話し始めた、黙っていたのは俺に気を使っていたのかもしれない…「ああいうの覚えておくと便利なのよ、あたしは身体が小さいでしょ」なるほどね、と俺は頷いた、「ナースだったって?なんでやめちまったんだ?」あたしそこそこ人気のあるクリニックに居たんだけど、と女は続けた、「センセイが夜逃げしちゃって、患者もなにもほったらかしで」「周辺のクリニックとか病院とか巻き込んで大騒ぎになっちゃって、ブラックリストに載っちゃって」続けられなくなっちゃったの、と、肩をすくめて口を尖らせる、そんなことあるんだな、と、俺は相槌を打つ、「どんな気分だった?そのとき」んー、と女は語尾をかなり伸ばしてしばらくの間考えた挙句、忘れちゃった、と答えた、「もしくは、上手く説明出来る自信がない」いい解答だ、と俺は思った、そうだろうな、と相槌を打つと女は喜んだ、「こういう感じ、わかってもらえると嬉しいわね」そうだよな、と俺は少し気持ちを込めて言った…そんなことを話している間に、俺のアパートが見えてきた、頼みがあるんだ、と俺は気分に任せて口を開いた、「ベッドに横になるまで手伝ってくれないかな」女は大袈裟に考えるふりをしてから、いいわよ、と呟いた、「なんならモーニング・コーヒー淹れるところまでやってあげるわよ」勃たせられないよ、と俺は言った、わかってるわよ、と女は答えて、それで俺はようやく帰ることが出来た



自由詩 そんなことを話している間に Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-07-16 22:13:41縦
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